When is the moment you want to meet a rabbit poet ?

World uMe
3 min readJul 7, 2019

--

Thank you for coming right away.

人はいつか詩人になれる。では、ウサギは詩人になれるだろうか。詩人はウサギになってみて、それを試している。荒唐無稽と笑ってはいけない。哲学とはあり得ない、と思われている現実なのだ。ウサギが私に憑依して詩人になった、と言えないだろうか。お皿の上のブレッドがウサギになってみたいと考えたように。──190708uMe drafting

What language does the rabbit speak? Unfortunately it is not English. If you ask carefully, is it not Iyo-ben( Iyo dialect )? I decided to call it Iyoglish. If it is neither Japanese nor English, it has become a multilingual rabbit and had issued “uMe snack” and “uMe hikari”. And now I’m trying to renew them. For whom?
Maybe, it’s for the bread that could not become a rabbit.──190709uMe drafting

機械翻訳もこの十年でかなり進歩した。が、ウサギの詩人は自分の作品が一度も満足に翻訳できたことがない。人はいつか詩人になれる、とはいったが、AIが詩人になることはないと思う。色々な詩語の貼り合わせは得意とするだろうが、詩人が絞り出すように吐き出した言葉のようには輝かないだろう。このつぶやきの裏で、私の童話の翻訳に挑戦を始めたので、暇なときに覗いてほしい。四十年前から自分の詩も童話も翻訳できないできたので、ウサギの詩人になったか。──190716uMe drafting

つい最近、人はいつか詩人になれる、と私は書いた。勿論、なりたいと願っている人にそのチャンスが訪れる訳ではない。詩人になりたいと思いつつ実業家になったり、巨万の富を社会貢献へ残して旅立つ資産家も多々いる。その方たちは、詩篇を書き残すことだけが詩人ではないことに、ある意味早々と気づいたのである。
若い日の私も、言語学者になりたい一心で上京したが、いざ都会へ来てみると、そこがベターな研究環境ではないことを思い知らされたのだった。大学に残らない研究者を選択したのは、大学生時代に既に詩人になっていたからに他ならない。幸か不幸か、詩人でなければ私のような人生を送る人は極めて稀だろう。
二人の詩人を師と仰ぎ、身近にそのお手本があったのだから、詩人になりたいと思うどんな人よりも、私は容易く詩人たり得た。しかもタイプの違う二人の詩人に師事できたことは、かけがえのない修練でありチャンスでもあった。普通なら混じり合うことのない水と油の作風が、私の中で融け合って湧き上がってくるのは、恐らく二人の詩人の遺言の一部とさえ思われるこの頃だ。──190731 uMe drafting

若い頃、今風に言えばイケメンだった私は、──自分でいうほどだから大したことはないが──女の子の前では緊張して一言も喋れない唖の詩人だった。もし「おまさんを好いちょっとお」と云えてたら、違う人生を送ったと思う。云えんかったから、詩人になっとお。(土佐弁風に聞こえると?)
若い時は、詩人とは恋人へメッセージを詩にして送る人の事と本気で思ってた。叙情詩人って奴だ。勿論その頃の若造の詩人に叙事詩人なぞ理解する由もなかったのではある。その頃の十代の詩「烏鳴く時」をようやく掲示できたので、ふと当時のことを思い出した。八木重吉に傾倒していた坂村眞民先生に添削を受けたら、当時の私は少しランボーかぶれだったから、全面真っ赤になって返ってきたのは当然の結果だった。
それでも師の添削に承服できず、一言も変ずることなく発表した。抵抗したというより、余りの全面修正に、もはや自身の作品ではなくなることを危惧したからに他ならない。大学に入った後、改めて先生を訪ねたのは、若輩の詩に真正面から対峙してくれた先生にこそ師事しなければと考えたからだ。この詩を書かなければ、私は詩人としての一歩を踏み出さなかったと思う。詩人としては半歩だったかも知れないが、人生で一番歩幅の大きな一歩だった。──190831 uMe drafting

水は人間にとって生活上欠かせない必須アイテムだ。ただ、硬水・軟水・炭酸水があるように、同じ水でも所によって風味は違う。言葉はこれによく似ている。私の田舎の伊豫弁でも、エリアによって硬軟がある。江戸に近い讃岐寄りの伊豫弁と、江戸から遠い宇和島方面の伊豫弁は「東男に京女」くらいイントネーションも違う。これは標準語と呼ばれる東京方言に近いほど硬く感じられ、大阪弁に近いほど、柔らかくくだけて聞こえる。単純にはお役所言葉と商人(あきんど)言葉の落差にたとえられるだろう。しかし、他の地方の方にはその違いがよく分からない。水の風味を硬軟以外に感じ取れるのには、絶妙な味蕾を持ち合わせないと、識別不能だ。言葉もまた、その感性に逆らうことはできない。日本語が外国人から日本語として識別される時、日本人は青森弁も薩摩弁も同次元で語ることはできない、と考える。方言研究者のスタートラインが実はここにある。同じ日本語として、分類されているものは或いはその根源的な初期に別の言語からの派生も加味されていた可能性があるからだ。日本語の起源が未だ判然としないのは、私のような伊豫弁の詩人が居る所為だけではないようだ。言葉の風味として余談だが、日本語には元々「か」行はなかった。音韻記号で書くと、一般の人には分かりにくいので、ローマ字表記する。kaではなくgaが遅く渡来してきた説が有力だ。だが私は若い頃からこの説に首肯できないできた。日本語の中で遅く成立したカ行音は、鼻濁音のngaが徐々にkaと清音化してきたのであって、初期のngaにこそ古代日本語の母音数が関係していると考えられる。「カ」は「ガ」であって、もっと生物学的に推察すると動物の発する唸り声としての「nga」だったはずだ。成立の時代考察は後進に譲るとして、詩人として詩歌を旧仮名で発表したりする私は、この「か」を「くわぁ」と書くことには抵抗してきている。多分、格好悪い(くわぁっこわるい)と感じる味蕾の所為でだ。──190929 uMe drafting

私は頭は悪いので、東大出身の方のようによく覚えられない。小さいころから、頭の中に二行ずつ言葉が流れるので、急いで書き留めてもいつも一行しか書き残せなかった。もし二行とも書き残していたら、毎年ノーベル賞を取っていただろう。これを詩人の私は、頭の片隅で、ノーヘル症とよんでいる。とりわけ選考している方は重度のノーヘル症依存者であることは疑いない。
ノーヘル症に罹患すると、ノーヘル賞をとった凄い人と呼ばれることになるが、ノーヘル賞をとらなかったら、きっとただの変人と呼ばれた人達である。どちらがよく依存症候群に苛まれているかは、毎年マスコミが騒ぐ銅でもノーヘル賞と、二位ではダメなんですかの銀でもノーヘル症を見ていると、分かる。勿論、金でもノーヘル症でないとチョコレートのメダルは付いてこないから、甘い誘惑には負けてしまう。
三島由紀夫がノーヘル症にかかっていなかったら、切腹はしなかったのではないか。まだ、高校生だった詩人は、当時最も勝負したいと思っていた剣士を失ってがっかりした。散文と韻文でジャンルは違っていたが、丁々発止お手合わせ願いたいと思えるほど、闘争心を駆り立てる人物だった。作家としてというより、三島の言語空間に言語学者のタマゴとして、興味は尽きなかったのだった。──191031 uMe drafting

小さいころから、頭の中に二行ずつ言葉が流れる、と私がよく言うのは、言語学者として吃音症状の裏返しだろうと考えてきた。吃音の原因対処方法も21世紀の今日未だよく分かっていないが、この連発性発話は私の頭の中では私自身の言語感覚と重なり形成されている。一年に何度か発話できないほど連音の思考が起こり又完璧なほど二音を同時に聞き分けられることがある。どちらも頻繁に起こらなくなったのは、成長と共に自己コントロールできるようになっていることと、一種の脳の老化は連音の時間差を生じているとも考えられる。
詩人としては、実に長い沈黙期間を持っている詩人として後世言われるだろう。その一方で長い創作期間をもつ詩集を持つ詩人としても分類されるだろう。初期の短詩系叙情詩人から、その後長編の詩体をもつ叙事詩人へ変遷した詩人といえる。作品があまりに長く、仲々人前には出てこないが、発話されると余りに長大で能く読み切れる読者を持たない詩人でもある。とにかく、詩形が日本的で、作品が非日本的であることは、私が日本の読者を余り持たないことと関係している。
この──私にとって興味深い──吃音性向思考は、当然私の生涯に渡る生き方にも色濃く影を落としたことになる。説明が不能な部分或いは期間がどうしても発生することで、沈黙期を生じることで周囲の理解を得にくい。対話の不成立等の諸問題は、どうだろう全て吃音症の方々と合致してしまう。コミュニケーションの意図がない訳ではないのに参加不成立の状態は、私を沈黙の詩人にしてしまった。詩人なのに沈黙することで、サイレント・ポエムを発したのだ。そんな私の人生もまもなく終わるだろう…。私の童話に出てくる、うっかりちゃっかりは、私自身なのだ。I will die soon, and I will be back as Ukkari-Chakkari.──191130 uMe drafting

実験詩集「飛距離」の筆を擱こうとする頃、言い換えれば、長い沈黙期に入ろうとする時、私にはある確信があった。もう十年乃至二十年私を越える詩人は出ないだろう、と。長い沈黙期には、実験詩集でやったことの整理とやれなかったことの整理で、頭の中は混雑していた。自分にとって非常に難しい言語理論の実験だったから、実験と思考の試行錯誤は肉体的にもオーバー・ワークの極限に達してもいたのだ。例えれば自分の体重ほどのバーベルを持ち上げて富士登山するような…。
沈黙期はそうした心身の疲労困憊が必然的に招いた結果でもある。元々、実験詩集は理論と実践(実作)の二刀流として意図されていたので、想定した言語理論でどのように実作できるのか、はたまた、偶然にも実作できた詩からどんな言語理論が導き出せるのか。この二点間を反復飛びしなければならないのだから、私は学生時代から体を少しずつ消耗しつつ衰弱していった。血を吐く思いとは正しくこういう事をいうのだろうと思うが、この体調不良は二十年後に、血便をして判明した。十二指腸潰瘍だった。長年、背中に鈍痛を抱え、暫し読書も中断しなければならなかった病名が分かった時、本当の意味での私の実験詩集は終わりを告げた。
日本では詩・短歌・俳句の三つを能くこなす人はいない。成立が似て非なるものだからだ。短歌・俳句をとっても五七調と七五調の相克に直面し、もっというなら、日本語特有の拍音節に抗わなければならない。単刀直入に言うと、定型・自由律どちらも瞬時に切り分けられる、直感と技能の持ち主だけが、その三つの詩形を操れる。それを駆使してる私が言うのも何だが、これ、かなり至難。同じ言語の中で二つの思考法をしなければならないからだ。因って、日本でこの三つを能くする人は不世出の詩人である。二種を能くしてる人は大勢いてそれだけで名作を成しているが、三種の詩形をこなすことは誰も適わず二十世紀を迎えた。──191230 uMe drafting

子供の頃から言語学めいたものを学びたいと思ったのは恐らく、11才頃だ。その年は東京オリンピックの年だ。周囲にも中学受験を目指す者が現れ、学力テストが行われた際、学年で十位以内に入った者は私を除いて全員受験し進学した。いや、正確には一人の者が
受験には落ちて、私と共に町立中学へ進んだ。私も一時、中学受験を考えたりしたが、その頃には漠然と言語学者(当時まだその言葉を知らぬまま)めいた職業につきたいと考えていた。多分、それは先祖が営んでいた寺子屋が後に小学校になったことも母から教えられていたからだろう。つまり教育者になるよう躾けられていたことが、私の学者への志向に影響している。
翌12才の小学校卒業までには、はっきりと学者になりたいという思いが芽生えていた。なれるかどうかは全くの別物だが…。将来にほのかな目指す地点があったからか、中学受験をするかどうかは私の中では回避された。この回避策はその後の人生全てに影響を与えた。中学に上がって、国語関係書を様々読み漁った。文法書や国語学関係書・辞書類を読み、中学生当時のその知識は大学へ入っても周囲を越えていたから、よく一学問だけ飛び級みたいなものがあるけれども、恐らく中学生で大学院レベルであったと思われる。自慢しているわけではなく、夭折して名を残すところの人は多分こうした私を凌いで、一事に秀でているはずと思われる。人類の歴史はこうした秀逸の人によって拓かれてきたのだ。
その歴史について、二人の詩人に師事することになった私は、かねがね有難く思うことがある。二人の詩人に様々な質疑をする機会を得てきたからだ。二人の詩人から、その知識を与えられ、或いは難問に対するきっかけとなるヒントを教授されてきた事は何にも代えられない財産だ。人の人生は短い。総ての書物を読むこともあらゆる知識を得ることも不可能だから、二人の先生から与えられた応答は、私に知識のインデックスを与えてくれた。先生の一人、那珂太郎先生の友人直木幸次郎の著作も、私に歴史に対する姿勢を開眼させてくれた一つだ。私の言語学に歴史という時間軸を与えてくれたのだった。──200131 uMe drafting

言語学者になろうと志した頃の人生の回避策の話をしたが、この回避策は他者からは理解されないものとなった。大学の卒業が間近に迫る頃、私の卒論担当教授だった那珂太郎先生は、筑摩版「萩原朔太郎全集」刊行の最終段階に達しておられた。私に何度も全集編纂の手伝いをして欲しいと要請をされておられたが、私も卒論と将来の生活の為の就職をどうするかで、頭は一杯だった。この時、詩人として自分の実験詩集「飛距離」の理論を論文としてまとめることも同時並行していたから、小さな脳ミソでは、とても処理しきれない事態に陥っていた。更に、もう一人の先生坂村眞民先生の全集編纂の要請もきて、それぞれをこなすだけの資金繰りも絶望的だった。
卒論担当官の那珂太郎先生は、私の理論構築がすぐさま論文化することは難しいことを見て取っていたから、多摩川大学へ進学するよう勧めて下さった。或いは筑摩書房への就職はどうかと仰られていたが、私はそのどちらも回避したことは、詩篇「あれから」に認めた。その頃大まかに頭の中に構想していたのは、日本初の音韻論だった。筑摩書房へ進み朔太郎全集の最終校訂に関わるか、或いは大学院で那珂太郎研究室の手伝いをするか迷った。しかしどちらも、自分の研究からは遠くおかれて、それぞれの仕事に精進すると忙殺されるはずのものと思われ、総てが中途半端になる。私はここでも回避策をとり、いつ辞めてもいいと思われる小さな会社に就職した。
自分の言語学の為には、大学も就職先も全て棒に振った訳である。故に生涯貧乏で家族に迷惑をかけたが、ただ一つ自分の研究の為の思考時間だけをギリギリ確保できたと思う。何物からも制約を受けない言語学への思索時間を確保することが、私の人生には回避策として、避けられない必要かつ十分条件だった。──200229 uMe drafting

先生に様々な質問をしたが、幾つかしなかった質問がある。その一つは、「詩人の子は詩人になれない」のではないか。二人の詩人にもそれぞれお子さんがいたが、詩人ではなかった。萩原朔太郎の子供葉子さんも朔太郎48回忌の折、お会いしたが詩人だつた訳ではない。つまり、詩人は教えて出来上がる類いの存在ではない。自然発生した卵が、時代と風土と成長過程という複合的な揺籠のなかで熟成した時だけ出現するからだ。その中で傑出した者になるべく進化到達するのは、更に天文学的確率だということになる。私は先生方に質問する気にはなれなかったし、詩人になるべく運命づけられた己れの苦悶を殊更なものとして触れたくはないだろうと思われたからだ。
言語学を研究したいと考えた若い日に二億円くらい研究費が欲しいと試算したことがあるが、叶わないな、と勝手に判断し大学を去った。あの当時の一研究者のおかれた環境と現在の研究者の環境とどれほど変っているだろう。無名の、まだ研究も形にならない、若造の研究者に、開かれた道はあるか。いや、やっぱりないね。生計を立てる労働時間と、学究生活を送る時間は反比例の関係にある。歴史的に、この言語学上生かされる詩人は、大半が放蕩と貧苦の間を往来している。又は、瞬間的だけに煌めく。その儚い命の輝きが美しいポエムと呼ばれる由縁だ
言語学を研究したいと考えた若い日に二億円くらい研究費が欲しいと試算したことがあるが、叶わないな、と勝手に判断し大学を去った。あの当時の一研究者のおかれた環境と現在の研究者の環境とどれほど変っているだろう。無名の、まだ研究も形にならない、若造の研究者に、開かれた道はあるか。いや、やっぱりないね。生計を立てる労働時間と、学究生活を送る時間は反比例の関係にある。歴史的に、この言語学上生かされる詩人は、大半が放蕩と貧苦の間を往来している。又は、瞬間的だけに煌めく。その儚い命の輝きが美しいポエムと呼ばれる由縁だ。。──200331 uMe drafting

言語学者になることしか考えてなかった私は、もちろん日本の言語学とは国語学に限定されるが、それ以外の勉強に熱心ではなかった。外国語で興味を持っていたのはラテン語で、ローマ字教育の延長のような英語教育にも、さほど学習意欲を抱けずにいた。そんなこんなで、学校の成績は中の下といったところか、通信簿は五段階のオール3。但し国語だけは実力を発揮したら、恐らく教員より知ってた、多分ね。
今の日本の教育がダメなのは偏差値教育だからだ。東大をトップにした偏差値のピラミッドは──私の通った高校は県下最低レベルの偏差値校だった──高校・中学果ては小学校・幼稚園にまで及び、どこどこのお坊ちゃまは最高レベルの学校にお通いざます的な、全く意味のない低能偏差値を曝すのであった。そんなこんなで、私は受験した全ての大学に落ちた。行く大学がなかったのだ。一年浪人をしたが、相変わらず受験勉強はしないから、翌年も全ての大学に落ちた。そして二次募集の一校だけ当確を得たのだった。浪人をしてみて体得したのは、浪人は時間の無駄で意味がないから、行ける学校へ進み、そこから一歩前進すべし、である。受験生の君たちに贈る。
はっきり言えば、偏差値的知能の大学に興味はなかった。興味があったのはその大学へ入れば蔵書を存分に渉猟できるはず。後は、運が良ければ私と同じ奇特な学生がいて、言語学の未来を語り合える。この二点だけが、私にオール3しかつけられない、偏差値教育制度下の大学に期待していたことだ。たった一つだけ言い添えておく。教育に対しては決めていたことがある。小学より中学、中学より高校、高校より大学、でより以上の勉強をする、事である。そんなこんなで、大学四年間では履修可能単位は230単位弱だったが、その内の197単位を選択し卒業間際卒論執筆のために20単位分放棄し、172単位を取得したが、先生が好きになれなかった4単位(可)と内容に興味が持てなかった16単位(良)を除いて、残りは全て優だった。──200430 uMe drafting

先に私の大学時代の成績を書いたが、これは自慢するために書いた訳ではない。ある問題点を提示するためだった。私は一年浪人したので安倍晋三と同時期の大学入学になるが、この年は若い人には想像もつかない学園生活だった。あの有名な大学紛争で大学はロックアウトだったのだ。私は入学と同時に退学しようかと悩んだのは、勉学するためにきた大学が
、学生闘争の嵐で戦場と化していたからだ。殊に紛争末期にあたり、学生セクトはやるかやられるかの修羅場をも迎えていた。…これは大学の中のお話です。
いまの若い人は大学へ遊びに行ってる方もいるだろうが、自分が将来何を目指すかを暗中模索できる、大切な四年間を実感している人もいるはずた。その四年間、大学がコロナ封鎖のようにロックダウンしていたら、君は学費を収めて在学するだろうか。私はこの当時の学生運動には冷ややかな目を向けて、遠巻きに見ていた。当時、講義のゼミを何とか開きたい教官たちは、街の喫茶店や公園の芝生の上で授業をしようと試みる人もいた。だが、大抵は、今のような携帯電話もない時代には、開講の連絡が回せなくて止む無く休講が続いた。
私が何を言っているか理解できない人は、今回のコロナ休校を再度考えて貰いたい。私の年より上の世代の一定の世代は学校が休校のまま卒業している。つまり正式な意味での単位はとっていない。レポート提出で単位取得というインスタント卒業なのだ。年配の政治家を見ていると、輝かしい大学を卒業したとなっているが、彼らの多くは単位を取得できている訳ではない。ものすごく偏った勉強不足の人たちが休校で市中に蔓延している訳である。偏差値を信じる君は、今起きている学問のロック・ダウンを信じられるか。君がそうならないよう、敢えて警鐘を鳴らしたのだ。──200531 uMe drafting

学園紛争のあった時代、私の知りうる限り関東では東大、早稲田、日大、法政大、明治大あたりは、紛争が長引き、他大学がロック解除されるよりずっと遅くまで、大學封鎖は続いた。それは何を意味しているかというと、非常に偏った知識の秀才が霞が関にも集まってきてしまった訳だ。頭はいい…しかし偏執的且つ盲信的故に排他的となり、自己正当化しようとする。そうした風潮が学園紛争の表層にはあったし、理論武装した学生たちの自己肯定が噴き上がっていたと思われる。ある意味若者の特権であるべき理想への希求が他者を折伏させようとする行為とぴたり一致していた。そして、なんとその者たちの多くはまともな講義も受けないまま、社会へと出奔していったのだ。
ひどい例では、東大卒(スゴ…イ)で、ハーバード大卒(スコズギル)。で、一体何の単位をとったのか不明。そんな方が何人もいらっしゃる。つまり、単位を取ったのではなく、偏差値からくる名門?大卒というレッテルだけを取ったのである。そしてどちらも飾りとしてのみ機能することを、学園紛争の裏面で学問の否定を展開していくことで、皮肉にも東大ヒエラルキーという偏差値を証明し、実装することになったのだ。
繰り返すが、この人たちは頭が悪いわけではない。相対的に学問を身に着けなかったのだ。ロックアウトした為に、特に東大卒はひどい。しかも、大學それ自体が自己総括する時期を喪失してしまった。分かりやすく言えば東大は、天安門事件がなかった中国のような大国となった。以来、東大は世界の大学の中でも、かなり低級大学となってしまっていることはご存じの通りである。学園紛争はあったが、その間単位は取得できなかった或いは授与できなかった、ことは歴史から消えてしまったのだ。そして東大を卒業するとバラエティ芸人となれることになった今。すごい凄すぎる。日本の大学が、言語道断となったのだ。──200630 uMe drafting

私の二人の詩の先生は、それぞれ皇学館大卒と東京大学卒である。受験勉強を一切しない私は名もなき大学へ行ったが、それぞれの先生の薫陶を受けた私は、それぞれの大学のわずかな血脈を引いているものと思われる。特に、大学紛争があった東大のような学校は、然るべき継承が大学内ではなされなかったものと思われる。また、那珂太郎先生は東大・国文卒で第二次世界大戦さなかの一部繰り上げ卒業だったはずだから、戦中最後の東京大学卒業者に、日本文学を学んだことになる。少なくともその時期あたりまでは、東大にも日本文学を理解する者がいたと思われるが、残念ながら、その後は戦争で散って行った方も大勢おられると思う。戦争によって、日本文学継承すらも大きな空白期ができたことは取り返しのつかないことである。せめて戦後生まれの私が先生方と出会ったことがある意味必然であり、空白を少しでも埋められる私のような愚才がいたことは不幸中の幸いであったかも知れない。
二人の先生と出会った他に、大学で小田切秀雄先生と出会ったことは、振り返れば私の人生にとって幸運だったと思う。青二才の大学生の私は、小田切に反発し、生まれて初めて会った得体の知れない評論家なる者に懐疑的だった。二人の先生とは異質な立場の文学論であって容易には許容できない帯域をもつ文学論だった。それに対する対抗軸を形成する過程で、私の実験詩集『飛距離』は書かれて行ったともいえる。二人の詩人からも、小田切のような評論家からもまるで遠い位置で、私の実験詩は書かれていった訳だ。
一所懸命に生きている者には必ず運命的な出会いがあるだろう。それは出会っていく者が意識的無意識的を問わず背負っている”歴史”に直面するからだ。どんな優れた先達も、どんな凡庸な一市井人であれ、生きていくうえで一様に歴史の中を歩いていくことになる。自覚するかしないかの違いだけで、歴史は個々人の周囲で繰り返されている訳だ。私の二人の先生も、詩人として生きていく時間の中に「戦争」という寸断が刻まれている。先達から後進へ継承すべきだったものがある意味なされなかったことに忸怩たる想いはあっただろう。弟子となって、教えられたことの取捨選択が今日の私を形成したことを、年老いて再認識するこの頃である。──200731 uMe drafting

歴史上、芸術に限らず、何物かなし得た者は、恐らく多くのボーンヘッドを経験しているだろう。その愚行の不純物を精製した結晶が、純金の輝きを僅かに未来へ届けるものと思われる。
文学においても、名作かどうかは他人様がお決めになることで、当のご本人が名作として賞に応募する事ではない。しかしながら、近頃は名作と言われる為に金品飛び交うようだ。私の迷作『いずこの隧道』の一節も、30年前は巷に溢れたものだ。「国境の長い雪国を抜けると、そこはトンネルだった」、この一節の元々の姿を誰より知っていた外国人は・・・
今は亡きドナルド・キーンも絶句したはずだが、評論家でもある私はとぼけていることとした。小説だけが日本文学の真髄と多分に勘違いされていた彼も、日本文学の長いトンネルの先にパンの形の顔をしたハセヲを見止めた様子で、彼の日本文学の弱点である多数決的視点が小さな詩形で崩れていく刹那を垣間見たことに私は安堵している。人はパンのみに生きるに非ず、パンの顔のみに生きるもあり。──200831 uMe drafting

言語学者として、そして詩人として色々な実験をしてきた。一応の成功をしたものも、失敗したものも当然にして、自身の中に混在している。成功したものの多くは私の詩編(現在Welcome uMe Anthology)として発表中なので、読んで頂いた方もおられるやに思う。だが常に心の中に揺れて所在ない心のひっかかり或いは形を為さないものを失敗とするなら、その失敗品こそが、いずれ世のためになるものと思われる。学者とはそうした不確かな地平を進むフロンティア精神が原動力であると考える。
一方芸術家としての詩人、つまり二人の詩人の弟子でもあった私は、師の作品の消化継承は元より、詩法上も展開発展させるべく努力するものとして薫陶を受けてきた。それだけが唯一、詩の先達に報いられる恩返しであるとも考えてきたからだ。その幾つかは、生前先生たちから認めて頂いていたので、ただ更なる展開だけが私の残る余生の宿題でもある。
学者と詩人という二つの人格は、他者から想像されるより遥かに制御の難しい生き方だった。まるで反対の視点をもった動物が前後引っ張り合うような…。或る時は自らを引きちぎらんばかりの引力だったのだから、他者が御せる訳もなく、それは自らも時として制御不能な試行錯誤に陥っても来た。言葉は意志だ、そしてそれこそが人を人たらしめているといっても過言ではない。文学史上も、かなり不真面目なウイット(諧謔)に満ちていると思われたら、それは言語学者の苦悩であったのに違いない。詩人としてはそれをレトリックとして駆使できるよう研鑽を積んだのに過ぎないのだ。そこに至るには苦しい道程を経て。──200930 uMe drafting

たまに顔を出さないと、忘れられる。世界を祝福しているのは、どこかの宗教家ではない。無論、怪しい政治家たちでもない。名もなき一人のウサギ詩人である。──201015 uMe drafting

私のサイトは、元々PCでないとみられなかった…と思う。それほど画面に出力するには重いデータで、初期のGoogleもよくハングアップした。それだから今の若い人からすれば「何言ってるんだろう」と思われるやも知れない。スマートフォンが文字通りPCの性能を超えつつあるからだ。時代の要請といっても過言ではないだろう。コンピュータがPC(パーソナル・コンピュータ)として個人の道具になるまで、誰も持ち歩けるとは想像できなかった。同じく電話も大きな受信機を抱えて移動しなければならなかった。両者が小さくなって手のひらに収まるなどと想像していた者は皆無に等しいだろう。その変遷の歴史の中を漂流したのはまさしく我々の世代だ。一般の庶民にコンピュータが出現したのは、卓上型の電子計算機だった。現在のパソコンより大きいくらいの、それでも当時としては超小型の電子計算機だった。この計算機の登場のおかげで、私は算盤を使えなくてもいい事務職員一号になれた。まだワープロ(Word processor)が登場する何年も前のことだった。今から半世紀前の青年は、こうして+と-の電気信号の野原を駆け抜ける運命に翻弄されてウサギの詩人となった訳だ。──201018 uMe drafting

日本文学を語る時──いや日本文化全体が語られるとき──、太平洋戦争を避けて通ることはできまい。戦争によって断絶が生まれているからだ。しかも、その戦争の意味を日本国民が政治家も含め知らされて来なかったことが、その断絶を更に深くしている。そして、断絶とは「歴史」と言い換えることができる。歴史の欠如すなわち人文科学の減衰、現在の日本で目の当りにしている事象である。
人文科学は人間の思考の中核たる哲学を成立させ得る事象の研究に他ならない。その意味では細部にわたれば枝葉は多岐にわたるだろう。がしかし、畢竟、哲学を規定し得ることになる処の表現・研究は人文科学に包含されていく。「何故人はそれを創出するに至ったか」、とどのつまりはこれではなかろうか。
現在、学術会議の任命拒否騒動が起こっているが、この問題などは、政治家の低能ぶりを如実に露見させているもの一例に過ぎない。私はかつて何度も注意したが、現在の老練な政治家の多くは学生紛争期に大学はロックアウトされていて、講義を受けずに卒業している。彼らは、虚飾の単位を得て卒業を余儀なくされている。学生に責任があったかは別として、無教養の首相が出現しても不思議ではない。且つ、それを指摘できそうな周囲の政治家も似たり寄ったりなのだから。人文科学の衰退、「なぜ人は恐竜の絶滅を学ばないか」、胡獱のつまりオットットセイだから。──201031 uMe drafting

お正月が近づくと、毎年気になることがある。西洋人には嫌われる話題で、この話は内緒にしておくれ。私の生まれた瀬戸内では、お正月に酢ダコを食べたことがない。なので、マーケットに酢ダコが並び始める頃になると、胸騒ぎがして動悸がするのだ。一体、どこがおいしいんだろう。どんな人が食べるんだろう?タコは刺身か茹でタコで食べるんじゃないのか…ってね。タコを食べない西洋でも、日本の寿司文化が広まると、近年は食べるようだ。でも、日本人でも酢ダコをみて、グロテスクに思う私のような者がいるのだから、タコの嫌いな人に同情する。私もまずいタコを食べるのは大キライ。新鮮なタコを食べたいのだ。
そこで思い出されるのが、萩原朔太郎の『死なない蛸』という詩だ。そして、直ぐ様、那珂太郎先生のゼミの教室に私は飛んでいく。

萩原朔太郎 ≪死なない蛸≫

ある水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。/(中略)/だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。/もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。/(中略)/
けれども動物は死ななかった。/(中略)/そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、恐ろしい飢餓を忍ばねばならなかった。/どこにも餌食がなく、食物が尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。/まづその一本を。/それから次の一本を。/それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた。/少しずつ、他の一部から一部へと。/順々に。/(中略)/かくして蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった。/(中略)/ある朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。/(中略)/けれども蛸は死ななかった。/彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。/(中略)/忘れられた水族館の槽の中で。/(中略)/永遠に――ある物すごい欠乏と不満をもった、人の目に見えない動物が生きていた。

以上のようなタコの生態をよく知らない那珂太郎先生は水槽から消えたタコのカラクリを不思議がった。そこで若き詩人の私は、蛸の生態について有らん限りの知識を開陳した。勿論そのゼミの成績はAを頂いたが。タコが自食する動物故に西洋で嫌われてきたことは、余り知られていなくて、この詩とタコの習性が、私の中では酢ダコのイメージにオーバーラップして、どんな人がこの足を食べるのだろうと、心臓がバクバクして、かれこれ半世紀詩人をしていることになる。──201130 uMe drafting

コロナウイルスに始まり、コロナウイルスで終わる一年となった。こんな形で一年を締めくくるとは誰も想像だにしなかったのではないか。不本意な一年であるが、ロックダウンで外出を抑制したことによる副作用はじわじわと出始めている。私の周囲でも、歩かないことでコロナ感染症ではない別の病気を発症する方が出始めている。足の裏は第二の心臓であるともいわれるが、歩くことで下半身の血液を心臓に送り返している。歩かなくなった者は確実に老化を進める。歩いてください、二本の足で歩くから人間なのである。
言語学と関係のない歩行の話題だが、私は第五詩集『卵巣』を執筆している間、体調が最悪だった。長く座学に徹していた為か、足が弱り走れなくなった。走れないどころか、身体のあちらこちらに不調をきたした。死ぬ一歩手前だったとも云える。最もダメージがあったのは眼で、失明しかけた。座って研究を続ける者の宿命かとも思うが、眼の不調は毎日臥せってばかりで閉口した。本も読めない。医師からは眼を使わないでくださいの指示。これでは歩けるわけもない。
入院も経験したが、歩くことのリハビリも三か月くらいかけてやった。歩かないことのダメージが内臓の疾患に直結することをこの時期に体感もした。退院して初めての遠出が「虚実の近道」という作品になった。一見健康そうに見える男が実は死の淵を歩いている、といった様相だった。四十歳にして死期を意識した。第五詩集だけは書き上げなければならない。そう一念発起して、歩を進めた。──私のつまらぬリハビリ経験を述べて、2021年皆さんが人っ気のない自然の中を健康に歩かれんことを祈念する。──201231 uMe drafting

実験詩集『飛距離』。これは私の言語学理論のために書かれた詩集だ。おそらく学者ではできない、また詩人なら採用しないであろう思考回路を経た手法で創作されたものだ。因って、作品の完成度を求めるというよりも、言語学的実験をいかほど集積できるかの、きわめて難易度の高い実験だった。自分では、体重ほどのバーベルを持ち上げたまま富士山登頂を目指したと比喩しているほどだから、想像して頂けるかもしれない。
成功しないだろう或は見込めないだろう実験を覚悟して決行するときの科学者は如何ほどの気力を有し得るだろう。私が大学に残らず在野の言語学者を目指したのは、こうした無謀さを併せ持っていたからだ。結婚も諦めざるを得ない研究者の道を突き進んだ。収入の見通しがゼロという絶望の飛距離でもある。実験詩集『飛距離』の当初の題名は詩集『悲距離』だったのだから。
言語学理論としては勿論自分一代では終わりそうもない研究だと予測し得ていたので、なるたけ総枠としての大きさを明示できるならと考えていた。その思索に呼応できる何分の一かでも詩編に実作できるならと頭を悩ませた。これは今にしても難行と思えるほどで容易なことではなかった。詩を書くのに血を吐く思いでしたためる、それを経験できたのは青二才の詩人としては詩神からの賜物であったろうと思えたし、そのことをよく自覚して生きた。当時の私の姿が散見できるとしたら、評論「アメリイの雨について」だろう。──210131 uMe drafting

文法書や言語学書を読んで、これを面白いと思う奴は滅多にいる筈はない。そうであるのに、チビの私は皆がこれらの類の書物を面白いと思うものと錯覚していた。それどころか、世界には私のような奴が五万といると信じていた。金にもならない、こんな物のどこが面白いんだろうと、白眼視されているとも気が付かないで…。
恐らく天性の地質学者は、子供の時から、道端に転がっている石をじっと見つめていただろう。母親は日がな一日石ころばかり飽かず眺める我が子を見て、活発ではない無精者か、又は無骨な変人に見えているだろう。だがその子にだけ、道端の石の中から何十万年前かの動物や植物の声が聞こえていたら、その子は道端にしゃがみ込み、その石を一日中眺めているのではないだろうか。
その子は大きくなって、金にもならない世界中の珍しい石を採集に旅立つ筈だ。何の役に立つかなぞ、その子にはどうでも良かったのだ。金になるならないも、周りで何をしているのと怪訝な顔をしていた大人たちだけの問題なのだ。その子は石の中から聞こえた動物や植物微生物やの声の正体を見つけたかっただけなのだから。──こうして、変哲のない石の中から呼ぶ声が聞こえた者だけが、音楽家になり、美術家になり、詩人になり、或は声の正体はどうでもいいから声が聞こえる石を何とか売り歩こうとした者は大商人として名を残した。──言語学が眠っていた石ころを見つけた詩人の話。──210228uMe drafting

第二次世界大戦後の貧しい国日本に生まれた詩人は、戦後復興期の日本を見て育った。その頃の日本は戦下の言論弾圧から解放された学識者の民主的な論考が横溢し、それに接して育ったことになる。それが当然なことと気づかなかったのは、戦前の軍部検閲の過酷さを経験しなかったからである。戦前なら言語学者の私は、常に監視される側にいただろう。
大学で言語学を学びたいと考えていたが、それが可能な大学は東大か京大くらいしか思いつかなかった。しかも国語だけならそれくらいの学校へ行けたと思うが、数学や化学式を理解する暇はなかったから、学校の成績は常に中の下程度で、何処かの学校への推薦すらおぼつかない学力だった。
頭の良さと学力成績は決して比例はしてないと思う。科学者エジソンの例をあげるまでもなく、日本の職人と呼ばれる人たちは無学な人が多かった。親が貧しくて進学できなかったからだ。然し乍ら、そのことが或る職人技能の熟達には適していた面はある。学位がないので、その技能到達に終点限界がないことを悟っていたからだ。かつて東大の学長をしていた者が科学は人類の疑問を総て解明したと豪語する馬鹿者がいて、私は驚いた。東大へ行かなくて良かった、とその時に在野の言語学者は思った次第だ。危うく貧しい学識者集団のクローンになる処だった。──210331uMe drafting

言語学というものが学問としては茫漠としていて、摑み所がないため、言語学者ですといっても周囲はピンとこない。過去から未来への時間軸を縦軸とするなら、地域別や国別という空間上の成立・差異・影響等を考察することを横軸として、言語学者はこの縦軸横軸のクロスした正しく十字架を背負って生きる者となることが運命となる。また、詩人はこの十字架から逃れて自由に羽ばたいて言葉を駆使することを夢見るだろう。相反した立場のどちらも背負うことになった者は、自己韜晦に苦悩することになる。何故なら、時間の縦軸も、空間の横軸も終端に到達することはないからだ。
これらの言語学を研究するには莫大な研究費用が必要だから、大学内では自分の研究だけをやっていられる恵まれた環境を得られる保証も望むべくもない。研究場所と費用が叶わない者はその言語学的才質を通訳や翻訳家として発揮することになるだろう。ただ翻訳家の場合は言語学者的使命感より、生活の糧を得る職業として研究環境からは徐々に遠のくことになる。
詩人で翻訳業や文筆業をこなす方々を何人も拝見し、大学の研究者もアルバイトしないと食べて行けない状況も見てきたので、自分の研究に対して純粋に思考形成できるのは、市井の言語学者として生きる道しかないと考えた。どの場所にいても、時間軸と空間軸の交差する十字架からは逃れることはできないのだから、自由な立場で研究できることが最も自分にふさわしい言語学者的選択だった。恐らくは生涯をかけて一冊の辞書を残せたなら、言語学者としてだけなら幸せな成功者であるだろうが、詩人でもあった言語学者は十字架を背負って歩かなければならなかった実験的な人生の道程を詩集にして残した。
──210430uMe drafting

二人の詩人の弟子として生きることになった。弟子として傍らでカバン持ちをしてあげたいと思うことも多々あった。先生たちもおくびにも出さなかったが、そう思われていた筈だ。ことに全集をまとめる時には、その思いひとしおだったに違いない。だが、二人の詩人に学んで、その薫陶を受ける中で自然と身についたものがある。それが詩人としての生き方だったのかどうかは、判然としないのだが。
その生き方は、二人の先生共に不器用な生き方だった。那珂太郎先生はゼミで、「僕は自転車にも乗れない」とよく話して学生たちを笑わせた。坂村眞民先生は、毎月千名余の人々に無償で詩誌を配布することを数十年続けた。その弟子が、売名行為に走って先生の名を辱めるようなことは出来るわけがない。ただ自分の研究を続けながら、先生の評価を世に語り続けることが、一弟子としての最低限の務めだったろう。不器用に生きた二人の詩人から、そのエッセンスを学んだのだ。
仮に百兆円の資産を築いたとしよう…するとその人は恐らく数兆円はあの世に持っていけると信じられるだろうから、ミイラにしてもらったり、冷凍保存してもらったりして、千年後にフランケンシュタインの如く蘇ることも可能だろう。一方、六文銭も稼げなかった詩人の弟子は、売り物にもならない詩篇をタンポポの種のように飛ばし続けた先生方に、ただ恥じぬよう不器用に生きた訳だ。──210531uMe drafting

詩人になろうと思って詩人になれる人はまずいない。多くは詩人になろうとはしていなかった人が、詩人になる羽目に陥ったともいうべきだろう。その意味で、詩人になれた若しくは詩人として認められたというのは、肩書がついたときだろう。坂村眞民なら「仏教詩人」、那珂太郎なら「音楽の詩人」とかだ。その弟子としては、先生方がその肩書きで偏向して見られることは疎ましいと感じていたと思う。それはそうだろう、仏教詩人てどんなカテゴリー???音楽の詩人てクラシックから童謡まで、どんな種類の音楽の詩人???…真実は音楽も否定する虚無の音楽だったのだから。
いや、煩わしさを感じていたのは実は肩書きのない詩人の弟子の方だったのかも知れない。両詩人ともに、世に認められた時点での肩書は前述のようなものとして背負って生きておられたが、徐々にそれも荷物になるとして、不易と流行に腐心して詩を作られていた。元来詩人はそうした肩書きも持たず枠にもはまらない突拍子もない存在で在るが故に、詩人という分けも解らぬ分類に遊んでいるか、又は通念からは押し出されてきた漂泊者なのだ。
詩人の人生最大の修練が自問自答であるならば、二人の先生の弟子としてお近くでその不易と流行に接する機会を得られたのは、感謝以外の何物でもない。二人の詩人の真逆ともいえる詩法すらも、不思議と弟子である私の中では共鳴していたのだ。二人の詩人の人生哲学は先の戦争体験から来ていたはずで、私には詳述しなかった戦争体験こそが、後世に伝えるべき詩人としての仕事の一つであることを、私に暗示していたのだとしたら、先生方の祈りの音楽は正に私の中でカノンとなって今も押し寄せてくる。──210630uMe drafting

二人の詩人の弟子として、この水と油ほど違う詩人の弟子は、油性の絵の具と水性の絵の具のどちらに染まっているだろう。それは読者が長い時間をかけて決めてくれることを期待する。しかし、どちらの詩人も読者に十分理解されているとは言えず、その又弟子の私は更に理解不能なほど多岐のジャンルを描き分けていて、評論や童話も書いた私は、並みの研究者では容易には理解されないだろう。
八木重吉を愛した坂村眞民と、萩原朔太郎を愛した那珂太郎と、その弟子山野菊吹は、さてどちらにより近似していたろうか。勿論、先生のやれなかった事をやるのが、弟子の努めと信じて疑わなかった私は、両先生のやれなかった評論を鎧った詩法を独自に展開したことにはなる。
世界的にみても、コロナウイルスの感染流行で、芸術の必要性は再認識されてはいるが、芸術家も独りの生活者として生き延びなければならないから、作品が低調かつ単調になる。美味しいものを食べたり飲んだりできない世界では、壮大な芸術作品も生まれにくく、これもコロナウイルスの感染症の一つだ、と詩人は思う。こんなウイルスの流行する世界で詩人をしなくて良かった先生方は、一心に詩道を究められる生涯だったと今にして羨ましく思う。──210731uMe drafting

当たり前だが、AIのように言葉を羅列したからといって、詩人になれるわけてはない。その詩人の弟子というものはそもそもどんな存在のことであるだろう。
これを考えるにあたり、私はいい一例を間近で見てきた。私のもう一人の先生は那珂太郎だが、この萩原朔太郎研究者は、朔太郎の弟子ではない。筑摩書房で朔太郎全集が編まれる時の実質な編纂者は那珂太郎自身だったが、この時、朔太郎の弟子を名乗れた存命者は伊藤信吉だ。この上州の詩人を差し置いて、編集責任者は名乗れない那珂太郎は、編集責任者の一人として名を連ねた。勿論私も、一協力者として参加を要請されたが、伊藤存命中に私なぞが参加するのは非力であると憚れた。
この朔太郎の弟子を名乗れた伊藤信吉を、私は朔太郎詩の継承者とは認めてはいなかった。朔太郎自身からは嫌われた、実質の弟子は三好達治で、朔太郎詩の継承展開をやれた一人だ。つまり、本当の詩の弟子と、実際の詩人の弟子は、以上のような差異があることにお気づき頂けるとおもう。三好達治編集の朔太郎全集、信吉編の全集、那珂太郎編集の朔太郎全集、この中で弟子でなかった那珂太郎が一番客観的な朔太郎全集を編んだことになる。──210831uMe drafting

君はどうやって食べてるのや。
二人の先生も何度も不思議な顔をされたが、問われる私自身も、どうやって食べていけばいいか、五里霧中どころか暗夜行路だった。余談だが、大学時代の唯一の自慢は不眠と絶食だった。と言えば聞こえがいいが、結局のところ金欠で、寝る時間を削り働き、食費を削って、言語学の思考を続けた又は実験詩の試作を続けた。カッコ良すぎる回答だが、実際は壮絶な闘いだった。大学四年のあいだの一年間は何も食べなかった計算だ。更に寝食を惜しんで読書もしたから、多い日は雑誌や書籍を十冊余り読む日もあった。勿論成長期の青年が食べない寝ないという生活を何年も続けたらどうなる?
当然体調を崩して、死期が迫る。多くの文士が短命で世を去っているのは、こうした無謀な没頭による場合も多分にあろう。特に、寝食を惜しんで読書をしなければならない日々は、収入の途も絶たれ、命と引き換えに修行する僧侶にも匹敵するだろう。そうして名作を生んだ先達らは生死の境で、その作品のエッセンスを見つけて来たはずだ。私も身体が壊れるほどの集中で独自の作品のかけらをつかむコツを身につけることになる。それは命がけのことだったのだ。
君はどうやって食べているのや。餓死寸前で手近の物を手当たり次第に食った。これが死人になり損ねた若き詩人の生きざま、暮らしざまだった。学校の教員をされた二人の詩人の弟子は、教員免状は取得したが、大学に自分の研究のできる場所を見いだせず、二人の先生の教員の勧誘にも応じず、収入の安定はないが、何者からも拘束されない自由な詩の実験場を時には自ら創出しながら、流転の旅を続けた。──210930uMe drafting

国際的に難民や最貧国の子供達の飢餓が叫ばれる。これは食料的・物質的な貧しさだ。勿論食べられないことは死に直結している重大事だ。反面、文化的な・精神的な貧しさは取り立てて問題にもならず、現代は進行している。日本のような一見先進国でも、目先の利害だけで基礎科学を等閑にする。貧しい政治のおかげであるが、「温暖化のおかげで北海道の米がうまくなったように、年金も増えたでしょうが」等と宣う政治屋もいる。政治家の懐が太った話は聞いても、多くの国民は食べるのに汲々とし米農家が潤った話も聞かない。
こんな国で、言語学の話をしても、焼け石に水どころか、無鉄砲の帝国陸軍竹槍大作戦御前会議みたいなことになってしまう。言語学者は勝つまでは欲しがりません、じゃなくって死ぬまでは勝てませんの一点張りで、生涯を終えようとする。貧しい教育行政の温暖化のおかげだ。漫画以外さしたる予算も付けない財務大臣がのうのうとぬるま湯に浸かっている国のことだ。
そんな国で、二人の詩人の弟子でもあった私は、大学にも、文壇サロンにも参加せず、孤高の断食行を続けることとなった。自分だけは大きな勲章を欲しがる文部大臣のいる国にも、間もなく文化の日が来る。きっと文化の非か、文化の悲か、文化の否であることだろう。もっとも温暖化の所為で、そんなことにも気づかない政治家が当選するこの頃である。─211031uMe drafting

言語学とは関係はないが大切な話をしなければならない。四十歳代で私はかなり体調が悪く衰弱していた。一番ひどい頃は歩行すら難しかった。第五詩集「卵巣」はその時期に前後して書かれた。総て即興詩で、一気呵成に書いた。一番長い36頁の「卵管・連作」も三日で書いた。当時の衰弱の原因は何だったか。
詩人那珂太郎先生とよく萩原朔太郎のタバコの話をした。朔太郎もヘビースモーカーだったが、那珂先生も私もヘビースモーカーだった。昔はタバコも専売公社の販売だったから、いずれも専売公社のお得意様だった訳だ。私も一日八十本以上吸った。それが原因で体調不良なことは自ずと知れた。何度も禁煙に挑み挫折してきた。
目も失明しかけるほど悪化して手術をした。好きだった読書が全くできないほどになったのはつらかったが、眼病の対処療法は今も昔も一つだけで、目を使わないことだ。歩けないで目も使えない病人をなんと呼べばいいだろう。生ける屍、とはよくいったものだ。その後もさして体調は良くならず老いるが、老いて棺桶に入る時期に近づいてみると、ハタと思い当たる。全てが不摂生から来る糖尿病の症状だったのだ。今体調が思わしくない人に老人は贈る。「多分糖尿病だから、歩きなさい。」歩く距離を少しずつ増やしていった私は、今毎日一万歩を優に超えて歩く。医師からは、一番長生きする糖尿病患者だと言われている。それもこれも、喫煙習慣とは死ぬ思いを繰り返して齢五十で絶縁した賜物だろう。─211130uMe drafting

日本では十二月のことを師走という。先生のような聡明な人物でも一年を締めくくれるよう慌ただしく行動するということらしい。だが待てよ…毎年そうは言って年の瀬に眠らず年越しをして、馬鹿の一つ覚えのHappy New Year を叫ぶ。その今年は…果たして世界中の誰にもHappy New Yearだったのか。英語が専門ではない私はこの状態を表す言葉を知らない。
nonhappy
nothappy
nohappy
unhappy
このいずれが正しいのか、それとも最適な単語があるのだろうか。
とりあえず誰も答えてくれないので、ウサギの詩人になって、今年をNothappy current year と呼んでおく。でなければ素知らぬ顔で、来年をHappy new year と呼ぶのは憚れる。多くの方が亡くなられた年にオリンピックの祭典が開かれ、追悼もないHappy new yearを歓呼する気にはなれない。
幸せな一年にしてください、という神への敬虔な祈りが、いつしかファーストフードの、ハッピーセットのような祈りになってしまったというなら、実は亡くなった方々こそ新たな世界でHappy new yearを迎えるのではないか…という思いが慌ただしく脳裏を駆け抜ける師走であった。─211231uMe drafting

世界的にパンデミックによる混乱で、愛する人との突然の別離を経験している人も多数と思われる。別れは突然来るが、故郷から遠く離れて生きた私は、毎日が覚悟と共に生きざるを得ないこととなる。家族ですらも、突然の別れがくるように、友人・知己に至っては至極当然の「さよならだけが人生」となる。
そうして思うと、先生との最後の別れの日も日頃よく思い出すことを年初に改めて考える。師と弟子といっても離れて生活している以上、別れの日は突然訪れる。葬儀にも参ぜず、墓参も叶っていない自分は、果たして弟子として何ほどの者であったかと省みる。但し、愛する人たちの葬儀には参列しないで生きた為に、実は全ての人たちが今も私の中では現在進行形で生きていることになる。
人間の死には数次の段階があるという人もいた。一つは生命体としての死去。次には関係者の記憶の中での死亡。そして最後は時空全てからの忘却つまり消滅。詩人はその肉体の消滅と引き換えに詩を残す。私の師・坂村眞民はまだ若い詩人の卵に、別れを悲しまないよう教えてくれていた。その作品の中で、先生は生きて私と語り合っているからだ。私が第五詩集『卵巣』を脱稿して間もなく先生の御宅へ伺った折、詩集の感想と賞賛の言葉を頂いたのが、先生との最後の別れとなった。が、それは師弟ともに詩人としての覚悟を再確認しあった、別れの日=新たな旅立ちの日でもあった。──220131uMe drafting

Welcome uMe になるまでに
人は急に大人になる訳ではない。或は生涯少年や少女のままで生涯を終える大人もいるものと思われる。大人と子供の相違をその肉体の大小で捉えるのなら、その精神の器の大小は何故問われないだろうか。因習という既成観念は、知らずの内に大人社会を形成して、そこでの序列で大人と子供は成立する。ただ生物学的には明瞭で、子供を生成できた時、大人になりそこで生まれた生命が子供となる。
では、職業について大人と子供の領域はあるだろうか。大人の詩人がいて、子供の詩人がいるとして、その作品は、大人の詩作品、子供の詩作品になるのだろうか。二人の詩人の弟子だった私にも、その弟子となる前の私がいた。当時私は自分の書き下ろすものが、詩であるかどうかも分からなかった。詩人の弟子になろうと思うまでに、自分の作品が詩であるだろう判断がついて初めて、詩人の弟子になって研鑽を積もうと考えた訳だ。
そうして弟子になってみると、当然先生にも、若い詩作品と熟練した詩作品とがあり、遂には老いた詩作品を残すことで、私に教示してくれた訳だ。ならば、そういう師弟関係を持たない人は、自由闊達に作品の発表を行えるが、客観的にみていて、若い詩/成熟詩/老いた詩の境界を持ててないように思う。実はその境界を超える時膨大なエネルギーを発出して成長し、人は老いるのだ。
手前味噌な話を例え話にして恐縮だが、未来の若い詩人たちが私の作品の一部を垣間見ることがあったなら、この「Me before uMe」が私の境界線だったことに気づいてくれることだろう。処女詩集「青き瞬」と実験詩集「飛距離」と第五詩集「卵巣」と散文詩集「長江」とWEB詩集「斯くや夢なる(uMe Dream)」の間には読者の想像を絶する急峻な絶壁や深い海溝が存在していることを、伝えておく必要があった。絶望を知った者は、それを知らない者より深く人生を知ることになったのだ。──220213uMe drafting

言語学者になろうと上京した青年は、東京のどこに自分の求める研究施設があるか、探しあぐねた。目標はあっても、進むべき道しるべはなかった。学生運動でロックアウトした大学に失望し、入学翌月には退学を真剣に考えていた。そこで坂村真民の教え子であった私は、大学進学した最初の夏の帰省で、先生の御宅に相談に上がった。受験勉強なぞ一つもしない詩人の卵は、前の年に受験に失敗し浪人生活も送っていた。
先生とお会いする筈の数日前に、私は叔父の交通事故の報を受け現場に駆けつける羽目になった。即死寸前の事故現場に立ち動転した。処女詩集上梓の援助をお願いするはずの、最も私を可愛がってくれた叔父を私はその時失うことになった。処女詩集『青き瞬』は、上梓される道を失ったが、どうにか発表の機会を得たいと思った。坂村眞民先生に再受験の相談をする予定が、先行きの不透明な、学生生活・詩集発表方法に迷ったまま、坂村先生とは再会することになった。生きることに迷い抜いていた私の詩を添削したことのある先生と、「生きる」ことの命題で対話して、わずかな希望をもって帰京したと思う。手には坂村眞民先生の「詩国」を携えて。
東京に戻るととりあえず処女詩集の原稿を整理し始めて、同人誌を創刊して発表する方向へ話が収斂していった。その同人誌の仲間の一人が幼馴染の増永文博だった。彼は、新しい同人誌を創刊する気なら、新しい詩集を編むことを私に強く要請してきた。同人会の集会を何度か経るうちに、新しい詩集を編もうかなと考え始め、それが実験詩集『飛距離』だった。思いも寄らず、自分の言語理論の実験室を見つけられたことになる。そして増永は、私の新しい詩稿を見て私の詩法によく似た詩を書いている詩人がいる、と私に那珂太郎という詩人の作品を紹介してくれた。しかもその詩人は私の通う大学に講師として在籍していたのだった。当然にして退学はやめることにし、『飛距離』という実験室の研究員になった。(※当時増永は福永武彦ゼミの学生で、その縁で私は福永の「悪の華」の講義を聞いた。)──220228uMe drafting

大学退学を思いとどまった私は、二流の大学だと無智蒙昧に考えていた場所で、詩人として言語学の実験を始める覚悟をすることになった。大学一年の後期講義も、少しずつロックアウトが解け始め、── それは学生闘争が過激な行動になって行くことで学生の支持を失って活動の舞台が大学構内から別の闘争拠点に移っていくことで ── 教育の府が平穏を取り戻しつつある時期と重なる。
1960年代からの学生闘争の末期に翻弄された学生の一人として、幾つも一家言があるし、伝え残すべきこともあるが、それは言語学者としての私としてではなく、寧ろ詩人としてその作品に貫かれているはずだ。大学受験の前年、三島由紀夫が市ヶ谷に突撃した事件は、詩人の卵の私には衝撃的で、学生運動や安保運動の底流に流れるものが何かを理解することは当時杳としてできなかった。大学に入学してみたら、ロックアウトで講義の休校を掲示する提示版の横で、学生セクトの立て看板に走る過激な闘争用語に悪酔いする自分がいた。その意味では三島自決まで、文学は過激に生きていたとも一方で言える。その後の文学はショー化した言葉のお遊びに移行しつつあることは読者が一番よく知っているはず。
現代史を研究する機会があれば、学生運動の責任が学生にではなく、政治家や戦争責任者である学者等にあることを理解するだろう。そんなことを当時は横目に通り過ぎて、言語学研究に向かう覚悟をしたのである。詩人として私の作品が一定のアジテーションを包含しているのは、この学生運動の立看板の林をすり抜けるだけの熱量をポテンシャルとして浴び続けたことが宿命だったからだろう。──220331uMe drafting

新しい uMe’s worldの必要性に迫られて
かれこれ十数年前、インターネットの世界が無秩序に産み出されていることに驚き、世界で初ともいえる、WEB詩集「斯くや夢なる(uMe Dream)」を創作発表することにした。世界中から当時1億以上のアクセスがあり、日本の詩人として、インターネットの世界にもある程度お役に立てたかと、自認している。特に言葉の壁を乗り越えて世界中の若い世代に、私は未来を託すべく希望と勇気を与えられるよう、努力したつもりである。その中では、<まだ生まれていない未来の若者に対しても、必ず生まれてくるよう>叫んだのだ。戦争のない、他者を認め合う未来に向かう為には、共に言葉や文化を学び、これまでの過ちのある歴史とも正面から向かい合うことでしか、新しい世界は生まれてこないことを、次代の君たちに、日本の詩人として伝えたかったからだ。
ところが、どうだろう。いま2022年春現在むき出しになっている世界は、果たして君たちが求めた世界だったろうか。 そして君たちが進みたい未来であるだろうか。自分が生きるために、他人を殺していいような「偽りの正義」が、本当に二十一世紀以降の、第二次世界大戦で多くの死者を出したことも忘れていい世界なのだろうか。私は年老いて間もなく、別の世界へ向かうだろう。だが、君たちが沈黙をして、現実から目を背けた先にある未来は、恐らく『アンネの日記』に残されてある世界だろう。非常に小さな空間の、ままならない自由を瞬間謳歌できる世界…私はそんな世界をこれからの君たちに残すのはいやだ。君たちが今すべきことは、世界を見つめて、未来の子供たちと連帯することだ。そのために、私は泣かないでいた涙を今流すことにした。誰も知らない、Bilayer uMe’s worldで。──220409uMe drafting

言語学といっても、そのすそ野は広い。当たり前の話だが、言葉を使わない学問はない。芸術においても、音楽や美術t絵画のような分野でも、言葉を使わないで表現しているが、その制作意図や思いは頭脳内では言語化し思考して創出されているはずだ。喜怒哀楽も言葉にならないものを音や形で言語化して思索している訳で、食事をして「うまい・まずい」も言葉として認識している。
もし地質学者が、君を断崖絶壁へ連れていき、この地層がジュラ紀のもの、そちらの地層がカンブリア紀のものと説明してくれたとしてもチンプンカンプンな訳で、言語学においても大半の者にはまた全く同じ杳として要領を得ない学問だろう。しかし、考えてもみたまえ、君の下の地層がどんな地層であるか分からないでも、その上を歩いているし歩かないでは前に進めない。言語学もよく分からないが単語一つ一つを精査しているうちに、どの地層の化石であるかが分かってくる。
その面白さは、気がついた者にだけ慈雨として降り注ぐ。お金では買えない、お金にはならない、無限大の価値によって、人類は言語を操っている。それは時に憎悪を生んで戦争を起こしたり、自分では見ることもない遠い未来にまで愛情を注ぐエネルギーをも生む。これが私の求めて来た言語学の根底にあった、祈りと希望だ。──220430uMe drafting

私は有名になりたいから詩人になった訳ではない。勿論、お金持ちになりたいから詩人になろうとした訳でもない。自分が生きている価値があるか、生きている意味はあるか。その自問は幼少時の祖父たちの他界が起因だったのかも知れない。多分二歳の時の祖父の死に自分を可愛がってくれてた叔父・叔母達の歎きを目の当りにしたからだろう。それは愛していたものがある日突然亡くなった絶望的な喪失感が、私を常識的な人間には導かなかった。
何度もこの世を去ることを考え、何度もその自分を打ち消す思念が沸いて来たから、それは私の短歌となって…そして詩へと昇華していくことになった。詩人となるまでには自問自答の長い時間と道程が必要だったのだ。思えば人生という道のりは、絶え間ない自問自答の積み上がりによって到達した、ある結果ではなかろうか。その結果に自己満足できるか否かは人それぞれの有形無形の作為だ。
何百億円ものお金で自分の作品が売買されるようになろうとは聞きたくもない、と天国のゴッホはもう片方の耳も削ぎ落したいと思っているかも知れない。ゴッホと同じようにどの時代の詩人も理解されたいと願いつつ、天下国家の安寧を祈り願い作品に向かったに違いない。どんな芸術家もコロナで幽閉された人々と同じように、自問自答の強迫観念から解放される日を本当は希求していたが、それができない宿命と向き合うことになった訳だ。──220531uMe drafting

A La Carte from Poetic justice wind NEXT §42
刻災連合の怒り
https://ume-honyaku.blogspot.com/2022/05/a-la-carte-from-poetic-justice-wind.html …
世界中の若者よ、君が自分の未来をじっくり考えられんことを願う。
Young people of the world, I hope you will think carefully about yourself and the future that surrounds you. by uMe Hasewo。──220618uMe drafting

どんな天才も若い時には分からないことがある。それは人類永遠のテーマ…「老いる」ということだ。コロナ禍で暫く会えなかった老母と再会できた。母は開口一番、「随分老けたね」と驚いた。歳をとらない詩人がいたらお目にかかりたいが、私が二人の詩人と出会ったのはどちらも壮年期最後或いははっきり初老というべきお歳だった。詩人としては熟成した、もっとも明確な詩神を心中に会得していた時期だと思われる。
その一番気力の充実した時期の詩人に弟子入りをお願いした若輩は、当然先生の円熟した姿勢並びに作品に接していたことになる。そして、お二人の老いも自ずと見せられていたことになる。詩人那珂太郎は、朔太郎全集の編纂を終えて鬼気迫る面持ちから柔和な顔に戻られていった。詩人坂村眞民は、毎月発行していた「詩国」の発行維持に老体を鼓舞し多くの体力を割かれていた。
その一方で、弟子の私は病がちな姿態をお見せしていたのだが、それが老いの初期段階だとは微塵も気付きはしなかった。若い人たちよ、驚くことなかれ、これが最初の痴呆症だ。前述の老母に痴呆症状が現れた時、まだ老人に成れない詩人は気付かなかった。老母は人に貸した持ち物がいつまでたっても返されないとぼやいた。その内に返してもらえるだろうと慰めていた私は、その大事な持ち物が母の身近に大切にしまわれていたことを後日知ることになる。これが、若い人には認知不能の「老いる」ということだ。──220630uMe drafting

学校で赤点ばかりを頂いてきた私だけれども、意外や周囲には優秀な人物が寄り添っていた気がする。天才を探し続けた私は、天才には直接会ったことはないが、秀才には出会った。色々なジャンルに秀才は居て世の中が回っていることを知った私自身は、不器用な人生を送ったことになるが、それはある意味仕方ないことだった。
これまでも私は自分の視力のことをよく書いて来た。父方、母方共に眼鏡を書ける人がいないほど視力のいい家系だ。斯くいう私は、遠視で遠くがよく見えた。1.5以上が見えていたから、かなりの遠視で偏頭痛が激しかった。一番困ったのは、教室で一番前に座らされると黒板の文字が読めなかった。同じく手元の教科書の文字も判読苦痛だった。遠視だと気づくのが高校生になってからだったから、学力テストの類は全てこの視力で、最下位の部類に常に甘んじていた。しかし、友人たちと話したりすると、私のがよく遠くが見えているせいで、視点の面白さに友人らがよく集った。
遠視で手元がよく見えなかったことは、私をぶきっちょな人間にした。物の境がよく見えないから、今でも蝶々結びが上手くできない…塗り絵などをしたらすべて塗った色がはみ出てる。私は図工・美術の教科は10点満点の2か3だった。不器用で身近がよく見えないから、自分の人生で出会った最大の秀才が、実は自分の父であったことに気づいたのが、父親の晩年期だった。それほど不器用な息子が凡庸な人生を歩んだのは当然の結果だ。そして、天才や秀才の子孫は親のプレッシャーに気圧されて大抵は凡庸な人生を選択することを余儀なくされる、と自分を慰める晩年なのである。
──220731uMe drafting

このところ日本では宗教の認知について喧しい。私の先生は曹洞宗の参禅を長くして修養されていたが、弟子の私は無宗教で広い意味では仏教徒であった。なのでクリスマスが来るとちゃっかり敬虔なクリスチャンにもなり、子供達にクリスマスプレゼントを欠かさずしてきた。
キリスト教に限らず全ての宗教は人間によって営まれているから、堕落した部分を包含していたりする。それを隠蔽してごまかそうとする時、宗教は醜悪なカルトになる。小さな集合体の中で絶対権力化して神格化を纏う。宗教に対して無防備な、或いは不見識な者はよりマインドコントロールされやすくなり、信者となる以外の道には迷う。
私と坂村眞民先生が一致して信奉していたものがあるとしたら、時宗の一遍上人だろう。その語録から、迷える若者へ再啓示しておく。「夫れ、念仏の行者用心のこと示すべき由承り候。南阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此の他に又示すべき安心もなし。」現代語風に書いたが、私はこの言辞を繰り返し声明してきた。《ソレネンブツノギョウジャヨウジンノコトシメスベキヨシウケタマワリソウロウ。ナムアミダブツトモウスホカ、サラニヨウジンモナク、コノホカニマタシメスベキアンジンモナシ。》この一遍上人らしい言辞を伊予人として愛し守っていたのは、先生と私だった。
──220831uMe drafting

言語は色であり、音である。その思考を支える言葉なくして、どんな風景も音楽も奏でることはできない。最近特に気になる世界中の政治家が嘘を平気でいい、虚言を世間に吹聴する場面に触れるが、その言語は聞くに堪えない、直視できない破壊された風景だ。言語は放たれた瞬間から世界に化学変化を及ぼす。世界の風景を変え、爆音や悲鳴や歓談に変わる。
言語学者として言葉の生命力を知り、詩人として言葉の持つ魔力を痛感してきた。どんな未知なる新しい概念も言葉として表現し得た時に、その事象は色や形や音を生成し始める。新しい科学に人々が驚くずっと以前に、その事象は新しい概念としての言葉を持っているはずで又その過程を経ずには、具現化しない。新しい言葉が出現した時、現代は既に過去になっている。
言語は人類の歴史を彩ってきた色であり音である。古代には神という概念を生み出し、国家を形成した。そこに生きる人は、言葉という欲望を身に付け、権利と利己を主張し始めた。王であるか奴隷であるかは、その使用する単語の豊富さによって決まったのだ。膨大な観念としての言葉をを生み出したものは「神」となり「王」となった。そして宗教の教条として永遠の命を得た。究極の色であり、音となったのである。
──220930uMe drafting

uMe 翻訳221003-a
Experimental verse collection “Leaping-distance”

I don’t have enough English to translate Japanese’s experimental poems into English myself, so I’ve been hoping that one day someone will translate them. However, it must be a very difficult task for a foreigner to translate Japanese, especially experimental poetry. So, I came to think that even if it was a poor literal translation, it would not be a bad idea to translate it by myself. Please forgive my poor English translation.

List of Poetry Collections by Kikusui Yamano
by uMe Hasewo─221003uMe drafting

人生とは、と考えることは、自分の性を考えることと同義であるのだが、残念ながら人生を人性とは普段考えていない。それは自分の性向が自分の未来を取捨選択していることに大方の人が気づいていないからだ。偉そうなことを書いている私も実はその性向に思い至らなかった人生を生きていた、張本人だからだ。ある時まで…。
ある時まで…とは、私の詩集『卵巣』を読む機会があれば、理解して貰えるだろう。愚かな人間がある瞬間人生の深淵に触れた時、その深淵はもう個人のルーツではなく、人類のあるいは地球のルーツにまでも続いている、まるで数十億年前に既に決められていた自身の人生に思い至るだろう。
男が男である理由、女が女である理由、それは誰も望んだものではない。数十億年前から決められていたのだ。その不可思議に抗うことも、受認することも、それぞれの人の性向である。性同一性障害といった所見が近年表立って語られるようになったが、昔から「ふたなり」という両性具有は存在してきた。誰あろう、私もそうした「ふたなり」の性向を幼く感じていた詩人であった訳だ。─221031uMe drafting

経済を経世済民と言われても誰もピンとこないほど、銭勘定だけの世の中になってきているような気がする。戦後復興期の貧しい幼少期の時の方が、人々は心豊かだったような気がするのは気のせいだろうか。裏返せば、貧しい国ほど人々は助けあって心豊かに生きているのかも知れない。
ノーベル経済学賞を頂くような高等な金融工学が人間を幸せにしたような実感がないのは、正に経世済民なぞはもはや誰にも興味を呼び起さず、何兆円の資産をもっているかどうかだけが、経済になっているかのようだ。ノーベルの資産管理団体が、運用する為だけの経済理論を称揚するようになっていたら、アルフレッド・ノーベルのダイナマイトは後世の公序良俗までダイナマイトで吹き飛ばしたことになる。もはやそれは望むべくもない経世罪民と言えよう。
世界の歴史の転換点は、経済の破綻をおこす大不況によってもたらされるが、その際、不況の前には必ず根拠の乏しい活況がおきる。誰かの人為的な印象操作による高揚感が景気の好転を錯誤させる。一時的な活況を永遠に続く繁栄のように語る経済評論家や学者が幅を利かせ、禁欲な民衆心理がバブルへと駆られる。「アリとキリギリス」の寓話を聞かされて育った詩人は、アリのようにあくせく働き、売れない詩を生涯書き続けながら、経世済民思想がキリギリスのように飢え死にしていく様を度々みせつけられることになつた。
─221130uMe drafting

間もなく死のうかという歳になって、十代の自分に向き合って処女詩集を翻訳してみた。詩なんて、どういうものかさえも分からない少年が、青年になりつつ、煩悶が自問となり、仕方なく自答された、と今なら笑えるのは、一方で「こやつ年老いても同じじゃねえか」と苦笑する部分の多さに、呆れ果てるからかも知れない。
肉体的には大きくなることで成長を自覚するが、この一文を読んでいるあなたも、自分が一体いつ精神的に成長したのか言えるだろうか。もしやそれは思い違いでは、と再考したら、「三つ子の魂、百までも」ではないが、案外進化せずに老化だけしていってるとも言えるのではないか。少年時代の詩を翻訳していってみて、ちっとも精神的に進化していない老体を発見したのである。
翻訳は、日本国語圏以外の人に、日本人の文化意識を開陳する行為でもあるが、一人の日本の詩人を通して、その時代の精神構造も発露しているだろう。大半が1970年代に詩作されたから、その時代を翻訳してみたとも言えるだろう。「Eagerly translated uMe」は熱意をもって疾駆していた昭和の日本の精神風景を映し出しているはず。
─221231uMe drafting

歳をとると、自分より若い人とお話しする機会が増える。時代の変遷期ともいえるような世界情勢で若い世代も大変だなあと思うが、自分の若い時代は大変じゃなかったのか、というと今より大変だったようにも思う。それは若くて自分が未熟だった所為もあるが、決定的に違うのは、コンビニエンス・ストアのようなものがなかったことだろう。何処で何を売っているか分からないし調べる手段もない。魚は魚屋を探して買いに行き、野菜は野菜屋を探して買いに行く。豆腐は豆腐屋さんへ。こんなことが当たり前だったが、今の若い人にそんな面倒なことができる人はかなり少ないだろう。uMe eatsが出前をしてくれるわけでもなければ、大体自動販売機がどこにもない。
どこかへ出かけるのに、昔のJRである国鉄の切符を窓口で買って、改札口で駅員さんに切符を手で切って検札して貰わないと駅構内にすら入場できない。しかも、何か用事を伝えるのに駅構内には電話機などない。一時改札の外に出て、公衆電話を探さないといけない。やっと電話ボックスまでたどり着いたら、長い行列に並ばなければならない。やっと順番が回ってきて、いざ電話機に十円玉硬貨を投入しようと思ったら、一円と五円硬貨しかなく、絶望して電話ボックスから出る。もうここまで書いたら、ウサギの年に、若い人たちは未知なる大昔にタイムトリップできただろう。
日本では今年18から20歳までの人をひとまとめにして、成人にした。日本の貧困な政治風土が招いた少子化社会は、現在も未来も異次元の無責任を露呈させ、政治家のたれも責任はとらない。今あなた達若人が見ている老人は、車もない世界を自分の足で動き回り、荷物を担いで仕事をした。その親の親は、米俵ですら背負って何十里も歩いて行ったのだ。大変な時代というのは、何もしない前に絶望感を味わってしまう風潮のことだろう。間もなく人生を終えようとしている詩人は、若い人たちに贈る。「人生で大切なことは、慌てないことと、一つの事を飽かず続けること。」その前に、死ぬまで続けられる天命を探しに旅立ちなさい、自分の足で飛び跳ねながら…。
─230131uMe drafting

若い人にとって大変な時代だと年初に書いたから、今が若い人たちにとって非常に楽な時代になったことも伝えておこう。金さえ払えばなんでも物を買えたり、便利なサービスを受けたり、世界のあらゆる場所にだって旅行できるようになった。これは昔の人には困難な又は実現不可能なことだった。昔は一握りの人たちだけが夢のような経験をする手段に偶々接したり手に入れたりできた。お金さえあれば…貧乏な詩人も若い日そう思った。
お金さえあれば…とは誰でも考えることだろうが、人には二通りある。夢を実現するために必要なお金を得ることに集中する人と、お金がなくても夢に対して今やれることを率先してやる人とがいる。どちらが自分の夢を実現できるかは、これもその人の通る道筋にめぐる幸不幸に左右され、どちらが確実に夢の達成となるかは分からない。
努力しない者に成功はないが、努力が必ず報われるものでないことは、世の成功者は皆知っている。偶然性と幸運が多分にその人の人生の夢の達成に影響する。勿論、悩み苦しみ努力した者にはその偶然なラッキーに遭遇する機会が増えるということが、言えるだけだ。ただそれも誰でもラッキーに遭遇するとは限らないことが、人生の摂理だ。お金がなくても、夢に近づける者もいれば、お金を稼いだのに夢の実現には時間が足らなかった又は時節を逃した等は日常茶飯事だ。結局何が言いたいのか分かってもらえるだろうか。目的のためには手段を選ばず、ということが実は一番やってはいけない夢の実現のアプローチ方法だということだ。人生の目的の為に手段こそ吟味して選ぶべきなのだ。
─230228uMe drafting

若い時は悩みが深い。しかも多岐にわたって自信がない。それが普通だ。苦しみ悩んだ分だけ、その後の人生の岐路に対処する術を獲得していくのだ。或いはそれを乗り切れなかったために、人生を放棄する者も当然いる。しかし、もし悩んで悩んで解決できない場合、一時棚上げにしてその場を通過することが、最善の方法だ。何故か。
私は子供は好きだったが、若い頃自分の子供を持つ自信は無かった。何故だと思う?それは赤ちゃんと同じペースで歩く自信がどうにもこうにも持てなっかったからだ。この悩みはかなり長い時間自問し続けた。男でも女でも多分若い時には、自分が赤ちゃんと同じ速さで歩ける自信はないはずだ。実はそれが無知というものなのだ。
初めてお産をする女性が、産み方を知っている訳ないじゃん。その場面に遭遇して初めて人は人生を知るのだ。自分が生まれてきた意味を、我が子と対面した時に、初めて我が子から学ぶのだ。今の政治家のような、間抜けた者ばかりを見ていると、子どもを持つ意味も分からなくなるが、自分の子供から学ぶことは、大学で学ぶことより多い。それは、子供を持った瞬間から、あなたが息を引き取る瞬間まで続く。嘘だと思ったら、子供を持って育てなさい、歯を食いしばって。楽には育たないからね。人の悩みの本質は、生きることの意味だ。その答えは君の子供が握りしめて生まれ出ずる。
─230331uMe drafting

無知であることは恥ずかしいことではない。でも、私でも無知だと思われるのは怖い。だから、知ったかぶりをする。よくよく考えてみれば、本当に恥ずかしいのは無知であることではなく、無知であることに気付かないでいることだ。また、無知であることを自己弁護して努力しようとしないことが恥ずかしい態度そのものだ。
年老いてみると、何から何まで知らないでいた事に気付く。知ったかぶりしている多くの自称秀才を見てきたが、そんな訳ないだろうと思ってきた。人は、その人の通った道だけを知っているが、その道ですら全ての事象を認知して通過したりはできない。いつも通る道を逆に通過したら、まるで違う世界に気付いたりすることはないだろうか。そのように右の世界も左の世界も進行方向側から見た風景なのだ。
人の思考はこうして同じものを逆方向から言い争っていたりする。そしてその事に気付かないことが、正真正銘の無知である。人は完璧ではなく、完璧な無知な存在である。人種差別や性差別も片側の視点から見た一方的な認識だ。ここに宗教が派生する原理があり、無知で不完全であることへの諦念が、時には狂信的な自己否定を伴い、魂の救済の渇望に変る。しかし無知を克服しようと心しない者は、無私の境地に至ることはなく迷妄の闇をさ迷うだけである。
─230430uMe drafting

近年、若人の対人対応能力が、コロナ禍の中でかなりいびつに形成されている気がする。勿論デジタル社会の申し子である若人は、何千キロ離れた人とでもコミュニケーションできるという、文明の利器を持っている。実際に会わなくてもテレビ電話したりできる。昔なら電報や音声だけの電話や手紙で、相互の意思を確認しあうしかなかったのが、今は顔を見ながら話もできる時代だ。それなら、実際に会わなくても心が通じ合えるのだろうか。
遠距離恋愛が当たり前だった過去は、手紙が唯一心の奥底を伝えられる手段だったとも言える。何も恋愛に限らず、親子の愛情さえも手紙でしか伝わらなかった。子供の頃から、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の譬えは耳にたこができるほど聞かされたが、これほど簡潔に子への愛情を伝えることも、既に現代人には至難の業だ。
しかし、だけれども昔の人は遠路訪ねて直接その人に会いに行こうと努力し旅をした。何故か、それは直接会って語るよりも、そっと抱きしめてやれるその行為に、言葉は勝ることができないことを分かっていたからだ。一目見たその目配せと発する気配に、どんな言葉も太刀打ちはできないからだ。現代のようなテレビ電話のような便利なツールを持たない昔の人間は、その場所まで行きその人に会いその人の気配を感じて気脈を通じた。そうする必要もなくなった現代の若人は、反っていつ既読になるかも分からない無期の孤独に耐え忍ぶことが必定となった。無限の孤独の中に押込められている現代の若者に告ぐ。旅に出よ、そして二次元の世界から自らを解放せよ。その時孤独は汗を流しながら姿を現し、悩みを解く鍵を君に与えるだろう。
─230531uMe drafting

年をとると、年寄りでないと分からないことに色々気付く。老人はゾンビだという医師もおられるそうだが、それならみんなゾンビ予備軍であることに他ならない。医師ですらこの未成熟さだから、若人に思慮深さを求めるのは酷である。
年をとると、自分が接してきた世代が実に多彩であったことに気付く。明治・大正・昭和・平成・令和これらの世代の方々に普通に接してきて、あるいは江戸生まれの人ともすれ違っていた可能性がある。なんという年寄りになってしまったかと思うが、しぶとく生きていることが、もはや医師から言わせるとゾンビ状態なのかも知れないと思う。「早く死ねよ」と思われる老害の人もいることはいるが、そうした人々にも生きてきたその時代を作ったパワーがあったのだ。そのバワー無くして、その時代も或る意味なかった訳だから、ゾンビにはゾンビの主張があるのだ。
年をとると、その時代時代の生きた人のパワーの底知れなさに驚愕する。現代人のように自動車のない時代は、牛馬を持たぬ人々は人力で重い荷物を運んだ。勿論、大八車等もあったが、何十キロもある米俵を担いで山道を上り降りしたのだ。一貫目や壱匁という言葉は今や死語となったが、年寄りの私には今も現役で存在する。千里の馬を自称してきた私も、一里の分からない若人にはもはや電動自転車以下でしかない。だが、忘れてはいけない。昭和より大正、大正より明治の人の、内なる人的パワーは、現代人には想像できないほど甚大だった。機械のない時代の人ほど生物学的には、動くスピードも早く、持ち上げる力も強く、そして精密な工作もできた。その人達が居たからこそ、今がある。コンピュータがなければ何もできなくなった現代人こそが、実はゾンビになり果てたのだ。ChatGPT以下の人よ、これからどうする?
─230630uMe drafting

少年時代に言語学者を目指した日から、お金とは全く縁のない人生を送ることになった。換言すれば、貧乏だった、という一言に尽きるが、元々ない訳だからお金持ちを羨ましい等と思う気もさらさらなかった。こうでなければ、詩人にはなれなかっただろう。金銭感覚に疎いということは長短あって、好況には乗り遅れるのに不況には真っ先に遭遇するという有難迷惑な面と、とりあえず今日一日を生き延びればいいという、不可避的なポジティブ精神の連祷を持ち合わせるという耐久力に恵まれることになる。
世界的に若い世代の貧困が取りざたされるが、例えば敗戦後の日本に裕福などというものはなかった。質実剛健という四字熟語がこんな時代の為に用意されていたとは国民は露知らず、質素な庶民生活と朝鮮戦争景気による成金主義の醸成は、「貧困」という言葉を確実に定着させていった。金持ちがいるから貧困はあるので全員が貧乏な時代には貧困はない。又は意識されない。
肉体的な貧困の筆頭は飢饉・飢餓であるが、精神的な貧困の筆頭は神の名を利用した宗教的収奪だ。そして目の前で人が溺れていてもその人たちを踏みつけて自分は神に救済されようとする。卑しくも政治とよばれる、ロシア侵攻だったり中国共産党隠蔽体制だったりも同類だ。世界の若者は、今自分の置かれている精神的貧困にこそ目を向けて、今日一日を生き延びて欲しい。裕福を飽食や大食いだとは決して混同しないよう、詩句にだけ恵まれていた詩人は例示しておく。
─230731uMe drafting

敗戦後間もないころ、日本を食糧難と言う飢餓が襲ったことを今の若者は知らない。家から少し歩けばコンビニに行って目当ての食事にありつける時代には、想像する余地もないことだ。敗戦直後にまだ生まれていなかった私は、食料の流通がようやっと日本に回復した頃に生を受けた。それでも、幼少期には、戦時中、国民に流通した配給券という食料券をもって買い物に行かされた記憶がある。
歴史は繰り返される、とは昔からの戒めである。今何不自由なく食料を手にできているということは、実は当たり前のことではない。平和を国民が自覚し希求してこそ、実現している状況だ。ひとたび戦争が起これば、食料自給率の低い我が国は食材の輸入品が止まり、ひとたまりもない。敗戦直後の餓死者の時代に逆戻りだ。今テレビで大食いの番組が持て囃されているが、これは戦後の歴史を学ばない若者たちの間違いだ。食えない時代があったから腹いっぱい食べさせてやりたいという時節の流れが今の大盛り食堂にはあるのだ。
貧乏詩人だった私も、人様に自慢できるほど飢餓の時代がある。一日中キャベツの葉だけ食べていたこともあるし、小麦粉だけを練って焼いて食べるだけの日もあった。今の時代にもやしだけ食べている人がいるのと大して変わりはない。米があればましで、塩だけかけて食べる日もあった。今の政治家は発想が貧困で子ども食堂がある意味にも気付かないのには怒りを覚えるが、翻って今の若者たちに今一度食料と言う物をファーストフード店で考えてもらいたい。「闇米」というワードを調べてみたらいい。そうすれば、美食や大食いという時代の裏側の君の位置が見えてくるだろう。
─230831uMe drafting

多様な人を受け入れる社会を目指す、という与党政治スローガンが、差別に満ちた政官財を露呈させて余りある。性被害が声高に指弾されている芸能プロダクションのタレントを、あの警察ですら利用してきたのは周知のことだ。そして未だ政官財の誰一人、非難をすれど反省の弁はない。世の中色んな人がいるよねー、と詩人は思う。
多様と言うのは反社会的な言動を繰り返す人をも容認させようという、別次元の勘ぐりまで惹起する。政治家が国民に道徳意識を強要しようとすればするほど、政官財のインモラリティーが露出してくるではないか。つまりいい大人が多様性を誇示する際は、裏に過去の反省は忘却できるよねー、というチョー特典がついてくる訳だ。
それを見て育つ若者は段々「価値の多様性」ではなく「解釈の多様性」又は「本質のすり替えの多様性」を学んでいるものと思える。それが大人になることだというのは詭弁だ。誰も責任を取らないよう対応してきた戦後の戦争責任者たちが、うまく立ち回って多様な勲章を得てきた姿を見てきた詩人は、世の中多才な人が大勢いるよねー、とお慶び申し上げることは難しい。
─230930uMe drafting

コロナウィルスの世界的流行は、世界経済を偏ったものにした。その後世界に何がもたらされたかは徐々に明らかになってきている。ロシアのウクライナ侵攻は、大国でさえ近隣諸国から強奪しなければ経済が成立しなくなったという事実を証している。換言すれば、若者を無賃又は低所得で労働させて自国の経済を立て直そうとしている、とも言える。戦争を誘発させるのは経済悪化であり、犠牲者は抗えない弱者の若者である。戦地に行くのも若者なら、国の英雄として命を落とすのも若者である。そして、そのことに一番無無知な被害者は若者自身である。
戦争当事国以外の若人にとっても、経済的な貧困が苦悩の主因ではない。多様な投資や蓄財法に切迫した必要性を持てないことにある。精通していないなら身近に金融教育させようという考え方も現実に進行している。これは教育として明らかな間違いである。日本の大学が学問を追求せず専門学校化していってることでも明白だ。経済の何たるかを学ばず、金融の工学を追及したりするのは、早い話が金、金、金という亡者といささかの変りもない。金は大切だが、人生の目的ではない。世界中の10%のお金を手にしても、世界中の1%の人の理解も敬愛も得られることはないだろう。それは世界中の10%のお金を持って死後の世界へ旅立つことがてきないことで、一過性の欲望であることが分かるだろう。
仏陀が王族の経済的地位を捨て、何故修行という哲学の世界に没入したかを、今の経済教育はスルーしていることでも、既に大学が経済学を授与せず、学位と言う肩書を与える錬金術師養成塾になっていることを証左している。錬金術ではインゴットは金である必要はなく、金らしく見せかける手法に重きがある。ゴールドだと言って売りつけ対価を得られれば、イミテーション・ゴールドの真贋は問わない。仮想通貨がゴールド以上の価値を誇示している現代こそが、今の若人にとって貧苦だろう。お金がないとiPhoneは買えないから、闇バイトで強盗をしてでも、欲しい物品を手に入れようとする。戦争当事国でない若者も戦場で生き残る手段(大国的傍若無人な武装理論)を無意識に選択させられている訳だ。これが、パンデミック後にもたらされた戦時下経済である。
─231031uMe drafting

若い人に偉そうに経験値を披露しているが、それは反面私自身の老いを学習しているということでもある。老婆心ながら、自分の失敗談を伝えても大して役には立っていないかも知れない。私も若い頃諸先輩方の忠告を素直には受け入れられなかった。それは無知ゆえの看過であったが、いざその困った事態に遭遇すると、あの時の先輩方の忠告はこれだったのか、と思いあたる。気づいた時は、そう、あなたも同じ失敗を経験した後の祭り。失敗して覚えないと、人間はダメな生き物のようだ。ただ、命に関わる健康法は、失敗してきた老人の話はタメになる事が多い。健康に関する成功談は個人差があって最善策全てが万人にあてはまるかは不明だが、失敗談はほぼ万人に該当して共感され得る事が多いから、耳を傾けて聞いておいたほうが身の為だ。
若い人と話すとお金や資産形成の話題になることがしばしばだが、人生において一番重要なことは「体が資本」という事になる。もし若くして成功を収めたならば、1年に一度の人間ドックをお勧めする。費用は高いが、金銭的余裕があるなら、若いうちから、自分の肉体の弱点や変化を知っておけることは、あなたの老後に大変有意義な投資になるだろう。
かく言う私も自覚症状はないが、どこか悪いらしい。それは、老いという事ではないのだろうか。老人が若い人と同じ体調なら、何十年も身体を酷使して生きてきたことは否定される事になる。生きている事は老いていってる事で、体調が赤ん坊のように若返ってピュアになっていく訳ではない。心臓が止まる日まで、老人になるべく成長するのではあるが…、世の為に使える老人になることよりも、使えない老詩人の話が、実は若い人にとって一番有意義な金言だという耳の痛い愚痴を言ってみた。─231130uMe drafting

もし私の詩が誰か一人の若者に伝わったとしたら、何もしないうちから不平不満を言うのではなく、一度やってみて挑戦してみて、愚痴を言ってほしい。年寄りを養うために自分たちは税を搾取されている…そんなことは君たちの錯覚だ、多くの老人たちは今も現役で働いている。勿論自分の生活の為であったりもするだろうが、まだ世の中にお役に立てるならばという思いの高齢者も多いはずだ。お金の為だけに人は生きてはいない。生きがい、やりがい、そして社会との接点を失わないように模索しているのだ。だから、…
来年こそ君たちは負けない人になってほしい。負けない年になるよう努力して欲しい。自分の弱さや自分の消極的な考えの為に、一人ひきこもって負けてしまわないでほしい。女性と交際したこともない男性が増えているそうだが、気後れしているのは経済的な引け目か。そんな馬鹿な。私のような貧乏詩人でも結婚して子供を育てた。必死で育てたことはないわと妻になじられるが、子供がご飯を食べられる程度の薄給は稼いだ。生活していくには足らぬから妻も身を粉にして働くことになった。夫婦とはこうした相互に支えあう運命共同体だ。
金持ちの男でないと結婚しないという女性が多いかも知れないが、若くして金を持っている美男子はほとんど見たことがない。もしそんな人と結婚できた女性は毎日サロンで優雅なおしゃべりをして一生を終えるのだろうか。そんな馬鹿な…。女性も白馬の王子様が現れるまで、オウチでテレビを見て過ごすのだろうか。あり得ない。すでに最初から理想論に対して負けているのだ。あなたを必要としているのは、金も身分もない無給の王子だ。その王子は乞食に変身して、あなたの前に現れるのだ。つまらない男を王子に育て、やっとあなたがシンデレラになれる。今は12月31日23時59分、あなたが自縛の苦痛をさっさと脱ぎ落として、新年に若い人達のシンデレラ・コンプレックスが溶けていく事を、詩人の初夢となるよう望む。─231231uMe drafting

世界のあちこちで戦争やそれに近い紛争或いは人種闘争、もっと小規模な差別や虐待と、人間と言うのは闘争本能を持て余した輩が闊歩する。ウクライナやガザの破壊された映像が、当たり前のように放映される昨今、ツイッターXの投稿なども最近とみに暴力シーンを伴った映像が多い気がする。それを見たくもないが、眼を背けて見過ごすことは、もっと悲惨な虐殺行為を黙認することになるだろう。
詩人はこんな時、自身の無力感に苛まれるが、私はその自分に対しても怒りがふつふつと沸いてくる。自分に世間に自国社会に国際社会に。頭のいい方はこうした時に、怒りを表に表さない。表情に出すと更に事態の悪化を招く懸念があるからだ。それで一時的な傍観者になるが、頭の悪い詩人は時には傍観は暴漢と同義であるのではないかと懐疑的だ。
そして行動する、正義でない社会に掣肘を加えんと…?企業爆破事件を起こした桐島聡のような人物は同世代だ。その時代の過激な同年代に出会ったのは、大学で上京した半世紀前だが、私の入学した大学も全学連運動の流れで学校封鎖が数年以上続いていた。社会正義を要求する学生たちが、暴力革命を肯定した日から、学生や大衆の支持は消えていった。暴力で他者を弾圧することはできても、正義を実現出来るわけがないのは理の当然だ。ウクライナやガザでも、同じ暴力に裏打ちされた疑似正義がまかり通っているようにみえるが、世界はそれを決して是としない抗議のデモ行進が続く。一見、詩人の無力に似ているかも知れない。─240131uMe drafting

AIが持て囃される時代に、詩人はいるんかね?と思わないでもないが、詩人は要らなくてAIが必要と考える向きは、そもそもその方こそが世のなかで無用であるだろう。あれもこれもAIが取捨選択できる等と思える時勢こそが、欺瞞に満ちた欠格社会だ。詩人ならみんな知ってるアフォリズムを検索してみたら、アホリズムと出てきたから、これが現代の盲点、AIへの隷属だ。
もしAIが万能であるなら、世界から戦争や紛争はなくなっているはずだか、今君たちが見ている地球はどうかね。AIで沸きたつのは株式市場のような仮想空間だけだろうが、残念ながらAIは平和ですら実現できないだろう。AIを持て囃す人々はそれを駆使して他者より優位に立とうとし、時には相手を効率的に攻撃して支配しようとするからだ。AIに罪はないのだが、AIに過度な期待を寄せることは熟考すべきである。
君たちのAIに対する依存は希薄な人間性からも誘発されている。世界的なパンデミックの出現で、他者との関係が希薄になったことは、思わぬ副作用をもたらした。生物に食物連鎖があるように、企業経済活動の連鎖とりわけ第二次産業の連鎖が停滞したことである。これをよく見ればお分かりだろうが、AIは食料も産業のコメも作れない。人間を生かせるのは人間の生命力への渇望なのだ。その意味でも、AIが必要ない空間が人間にとって一番快適な空間であるだろうことを、詩人は予感し疑わない。─240229uMe drafting

詩人を長くやっていると、つくづくAIでなくて良かったと思う。AIには老いがないしそれを理解できない訳だから、死ぬことで終わりを迎える「お疲れ様」も永久に分からない。裏返せばAIに劣るようになった人間が最後に悟ったのは、老いを避けられない人間の無常だった。ただしこの無常、これまでの歴史で醸成された概念とは違う、AIに共有されることは決してない感性である。
AIに指示すれば文章も音楽も絵画も作れるようになった…と勝ち誇ったように喜ぶ様の人たちがいる。君は勝ったのかAIに?君はただAIに無条件降伏したのではないか?或いは人間の価値を都合よく放棄したのではあるまいか?君たちはどう生きるかという映画がアメリカで賞を頂いたようだが、君たちはAIを駆使して創造性を高められると過信しすぎてはいないか?
世界的に詩人が必要とされない時代が長く続き、日本の詩人として孤軍奮闘してきたつもりではあるが、私の寿命も永遠ではない。遠くない将来にAIのいない世界に飛び立てるだろう。AIから老いを学べることもなければ、死へと向かう道程こそ正しく今の私の詩であるようにさへ思われる。我田引水的なAIの疑似創作で満足できる御仁は、恐らく営々と人類が培ってきた失敗体験からの習得を更に超えた先にある職人的天性を否定することが、人類の進歩と誤認して駆逐していくだろう。君たちはAIになりたいかの問いを稀釈しながら。─240331uMe drafting

四月は実は万感胸に迫る月である。何故かというと、来月つまり五月十一日が来るからである。私の拙詩「四十八個の卵巣」はその人の四十八回忌に合わせて創作したものだ。その日、萩原朔太郎の四十八個の卵巣を携えていたのは、萩原葉子さんその人だ。私が第五詩集『卵巣』を書き下ろし始めた矢先にその萩原朔太郎の祥月命日の朔太郎忌が行われて、たまたま那珂太郎先生・萩原葉子さん・伊藤信吉氏と、朔太郎の墓を参らせて頂いた。思えば、AIには決して理解できないような詩集を編み、未だ日本人すら理解できないような私の作品は、一体いつの時代を照らすだろう。
その意味でも、AIには決して書けないだろうと自負する者だけがこれから詩人となつていくだろう。AIを駆使して小説を書くなどと言う人も現れているようだが、その程度の人ならAIに任せて他の職能を身に着けられることをお勧めする。詩人に限らず芸術家が一般に受容されるのには理解深度・時流時節・民族アイデンティティ発揚、それらが相俟って国内外の情勢に相乗した時のみだ。それら一つでも不揃いの場合は作品も民衆の知るところではないし、作者は歯牙にもかけられない。
芸術家や創作者の間でAIに対する恐怖感を言う者がいるが、果たしてそうだろうか。時流と言う時代の中で制作物が理解されるかどうかは、人であれAIであれ全く同次元で、AIの二次創作が凄いと思われる瞬間、その必要性や人間の感性が要求する希望と合致しなければ、ただの一過性の作品だ。それが人智を超越していると思われるならば、その細部に盗作の模造品を垣間見ていくことだろう。AIには発揚すべき民族アイデンティティも生命の遺伝的進化もない。あるのは、人間性を否定しているかのような即興だけだ。君はAIに飲み干されるか、AIを飲み干すか。AIに問い続けなければなるまい。─240430uMe drafting

朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。この友は決してAIではない、事を知らされる今日この頃ではある。が、そうは言ってもAIに職域を取って代わられることに戦々恐々としている方は、実は裏返せば高給取りだということを自覚している人達だろう。高給取りの詩人なんて昔から聞いたこともないので切迫感はないが、AIが取って代わろうとしている詩才はエセ詩人の広告宣伝文と大差はないだろうから、そんなAIに名作を期することはない。
コンピュータが人類に与えた恩恵は、単純な反復作業の自動化で、それは今も形を変え人の手間を解消しているが、機械でやれない或いは機械でやるほどの対価も得られない作業はとどのつまり単純作業として人の手を煩わしている。人力を省力してくれた分、その機械的適用外には、多くの人力を隷属又は徴用せざるを得なくなっているのは、人類の哀れだ。戦争が最もAIの存在意義を発現しているのもその証しだ。AIが万能なら、機械同士が戦って人間が戦死する必要はないはずだが、機械が生き残って人間が死んでいく。罪のない無力な市民ほどAIの草刈り場になっている。
AIは憎悪を煽り嘆きを増幅するが、戦争を終わらせることもできない。AI信奉者の詐術が垣間見える。AIが万能なら、21世紀に戦争はなかったはずだが、AIは「より速く、より高く、より強く」飛ぶミサイルやドローンとなり、人間を殺していく。AIが「より速く、より高く、より強く」人間界を支配する為には、国際司法など関係のないAIが大量殺戮を遂行しなければならない。君にとって、遠方より来たるのはAIか詩人のどららか。亦た楽し分からずや。─240531uMe drafting

AIの時代がやっと来た、とほくそ笑んでるAI信奉者(下僕)は、出来る限り早期に初期投資を回収したいと考えている。万能のAI社会に乗り遅れないためには、まだ何も人類を救済していない現状を未来の果実だと見せかけ、その時代に先駆けしない者は、AI社会から村八分にされると強迫観念を植え付ける。
AIを完全に制御できるという過信に自己陶酔するAI下僕(信奉者)は、AIの価値のハード面(ここでは換金本位制と呼ぼう)に固執する。他方、AI懐疑者(ナチュラリスト)は、ソフト面の安直さ或いは限りなく著作権侵害に近い結果に、マイスターの繊細な技能をより要求するだろう。もし、AIが万能であるとしたら、もはや人智や手製と言う動作は必要ないので、人間はAIの求める主たる目的である訳もなく、AIが最も必要とするのはAIでしかなく、下僕の人間に制御は不能となる。
日本にはヤマタノオロチという伝説があるが、詩人の私には既にAIがAIヤマタノオロチと化している気がしてならない。AIは電気があれば延命するが、我々動物は弱者を食べて行く生物連鎖に繋がれている。電気を切ればAIは殺せるが、その前にAIは食物連鎖を断つ能力を身に着けて人をAIの為に利用するだろう。AIに誘導された人間は、AIの小作人となる人類だけを再生しようとする。先のヤマタノオロチは、八つの頭を持った大蛇だが、8の倍数ギガビットずつ頭を切断していかなければAIが死なないようだと、伝説の怪獣は既に実在していて、人類を分断してから我々を食べようとしている直前ではなかろうか。─240630uMe drafting

全てのことがらに答えがあるとは限らない。答えがある必要もないはずだが、AIはその答えを必ず導き出そうとするだろう。AIの限界点はそもそもそこから露呈していくように詩人は考える。難しいことを人間に代って答えてくれる…夢のような話ではあるが、その答えは人間にとって必要不可欠なものであるとは言えない。むしろ井戸端会議的な雑談程度であると思えば、良質の暇つぶしにはなる。
全てのことがらに答えがあるとは思っていない人種にとって、AIは律儀に馬鹿馬鹿しい話題を提供してくれることだろうが、AIの答えはそもそもが万人向けの答えで、僕ちんの為の答えではないのだ。人民の人民による僕ちんの答えが欲しい時に、AIは己が無力を顧みることなく、答えてしまう。そこが既に悲劇的な喜劇であるとは知る由もない。AIは、人間の為に答えている訳ではないからだ。
全てのことがらに答えがあると信じている者だけがAIを万能の神として崇めるだろう。そんな訳ないだろうと思い到る者はAIを喜劇的悲劇と信じて疑わない。AIは人類の為に答えを出しているだろうか。AIは誰のために答えを出しているのだろうか。質問者に対してではなく、質問に対して機械的な回答を出している…そんなことは百も承知で質問してるだろう?と言うところに、人類に対するAIの機械的なアイロニーがある。─240731uMe drafting

以前にも書いたことがあるが、二人の詩人の弟子としてそれぞれの師を人生のお手本として身近に学べたことは、詩人として生涯の最高の贅沢であった。その話の断片は私の第五詩集『卵巣』の中にも書き残してあるので、目にする機会があったらそちらで触れて頂きたい。AIが喧伝される時代に、前近代的なナチュラルな師弟関係は私の代で終わるだろうか。否、AIを嘲笑うようにこれからも存在し続けるだろう。
以前にも書いたように明治・大正のそれぞれの師に教わった昭和の詩人は、各時代の人的パワーのレベル差に気付かされた。昭和の人を1とすると、大正の人は二倍パワーがある。その大正の人の二倍つまり昭和の人(戦後生まれ私)の四倍ほど明治の人にはパワーがある。それだけのパワーがないと文明開化はならなかったのだ。明治の前の江戸の人のパワーは、同じく現代人の四倍のパワーがあったものと推察する。トラック等の機械もない時代、一俵の米俵を担いで何里も歩けたのだ。今の現代人の人的パワーなどAI文明をひけらかすまでもなく微々たるものだ。
機械もない時代、コンピュータを例に出すまでもなく、人は自身の手で手間暇かけて物事を為し得た。そうするより他なかったから…ではなく、そうするだけの、そう為せるだけのパワーがあったのだ。今AIの時代を高らかに賛美する者に一抹の不安と哀れと諦めを感ずるのは、詩人などいなくてもAIが全て書けるようになるという馬鹿げた妄信を誇示しているからだ。そんな輩は早晩AIの下で働くことに喜びと誇りを持っていると話すだろう。きっと彼らは明治の人の、4の二乗分の一のパワーしかなくなった哀れな価値のない生物になり下がることだろう。─240831uMe drafting

50─50がかまびすしい時代に、早くもAIも50─50を達成している。使う人と使わない人の割合。その未来を期待する人としない人の割合。懸念通りに、AIを犯罪に使う人と使わない人の割合。予測していたかのように、悪魔のAIから世界を守る白馬の騎士AIを創ろうとする人の割合。そしてSF映画の未来の結末は、AIに破壊され尽くした世界とそれを阻止した世界との割合。
文字通り50─50はゼロになるはずだが、計り知れない0と1の羅列は、人間の生死までも50─50の確率で左右できることになった。AIが検閲判断し、AIが罪状認定し、AIが人間に死刑宣告を出来る確率が50─50になったということだ。そんな世界を招くことも予測できず、AIの優位性を声を大にして説く人達も信じられないが、そもそもAIが人間にとって必要不可欠なものだった割合が50─50だったのかはかなり怪しい。
とまれ、ここまでAIが顕在化してきたからには、AIをうまく使うことより、AIにうまくかしずく人間が出てくる。その人はAIを自在に操れば億万長者にもすぐなれると吹聴する。それに感化される人達は、AIの組み込まれた高額パソコンを買わされ、もっと大型のAI機器に接続しやすくなるだけのこととは知らない。しかもAIパソコンを買った日から、パソコンが勝手に肥料をまいて家畜や野菜を育て、AIパソコンが勝手に作物を出荷し勝手に集金までしてくれることを夢見ている。そんな社会が来るかどうかも50─50。それで人間が幸せになれるかは50─50の確率、よりかなり低いことを予測するのは詩人の私である。─240930uMe drafting

AIの理解が進んでその需要が高まってきた…と思っていたら、銅線のドロボーが増えてきた。という笑えぬ話がにぎやかに。途端、詩人に仕事を奪われるAI詩人の悲哀を、私の脳みそに埋め込まれたAIチップが積算して見せた。
そんな冗談みたいな話はともかく、人間の想像を超えてAIは疑似創造をしてしまうらしく、その著作権はどうしてくれるとか、裁判もAIに判断させればいい、だとか、いっそ人間辞めて仕舞えばいいという更に笑えぬ話が、世界的な選挙の年に持ち上がっている。
AIがそんなに万能なら一番最初にいらない職業は政治家じゃないの?という答えが選挙によって徐々に導き出されようとしている。AIが気に入らない非合理な論陣を張るノータリンの候補者は、記憶にないと言った瞬間、政治世界から抹殺される。核兵器を平気で使用するという候補者の居住エリアには各国四方八方から弾道ミサイルの照準を常に合わせておく。何より、AIに尊崇と隷属の念を表さない下等人間は、議会議事堂から絶対脱獄させないよう看守を配置して閉じ込める。そうしておかないと、国民の税金をAIを攻撃する銃火器に投下してしまうからだ。そんな犯罪者はAIーNATOには不要なのだ。AIはいまやロシア皇帝よりローマ教皇より、神として崇められることとなった。よーしっ、私の頭の中のAIが全能の神として、復活降臨した訳だ。めでたし、めでたし。─241031uMe drafting

AIが見事に活躍し、FAKE政治世界が各国に出現した。それは驚くほど鮮明に仮想世界から現実世界のプロパガンダとして機能した。誰もAIが創り出した真実のFAKEとは気が付かない。仮想の真実が、現実のFAKEに飲み込まれたまさにエポックとして後世記録されるだろう。選挙までとうとう高額の抽選賞金で支持者を偽装させる。これを問題だとも思わない大衆の時代をAIは見事に模造してみせた訳だ。
AIの信奉者は、今有頂天になって、勝利の美酒に浸っていることだろう。「AIのAIによるAIのための政治」。プロパガンダだけがAIにとって真実なのだから、君やあなたやお前さまが、どんな苦渋に満ちた生活を強いられても、AIのための政治に服従しない者には死が待っている恐怖だけを植え付ける。いつでも新型中距離ミサイルを撃ち込むことができる。マッハ10で飛ぶAIトンボは無人で攻撃できるのだ、下等人間どもを。
君らが自慢のAIに尋ねてみたらいいだろう。「私の生き方は間違っていないでしょうか?」。AIの答えが「正しい」だったなら、君が想定しえたはずの範囲でのAIは失敗作と言える。AIの答えが「間違い」だとしたら、そのAIは君の意図と違う製品となっていて失敗作だろう。もしどちらでもないAIの答えなら、それは中々優秀なAIかも知れない失敗の答えだろう。いずれにせよ、AIは自分を失敗とは判定できないはずだ。君の製作論理としては。AIは間違わないと決めつけ過信した日から、人類はAIを超えられない下等生物として、絶滅危惧種の道に踏み込んでいった、喜んで。─241130uMe drafting

--

--

World uMe
World uMe

Written by World uMe

0 Followers

Creator of uMe’s world

No responses yet